さらに難しいのは「始末に負えない野心」を罪と認めることである。というのも、「野望」は「向上心という美徳」と、ある種のつながりを持っているからだ。平凡なことに耐えきれなくなり、創造者に憩うまではどんなことにも満足できず、神からの最高の賜物に望みをかけて精一杯努力すること ―― そのような「向上心」が美徳とされている。パウロがそれと同じようなことを述べている。「わたしはイエス・キリストによって上に召してくださる神からの賞を得るために目標を目指してひたすら走っている。」(フィリピ3章14節)と。しかし、もし、わたしたちが向上心を生み出すエネルギーを得て、神を無視し、神を露骨に描き出した自分の自画像と取り替えるならば、わたしたちは卑劣な傲慢(ごうまん)に陥る結末になる。「野望」とは狂気に化した向上心である。「向上心」とはそもそも調整された、創造的なエネルギーである。「向上心」によって、わたしたちはキリストのうちに成長するよう促され、聖霊によって目標が見えるようになる。「野心」は、それと同じエネルギーをもって成長と進化をもたらす。しかしその結果、わたしたちは「野心」によって派手で安っぽいものを作り出してしまう。せっかくエデンの園で休暇を過ごせる時に、汗だくになりながらバベルの塔を作るという愚かなことに、わたしたちを追い込むのが「野心」である。
このことについて言えば、わたしは自分自身を専門家だとは全然考えていない。ただ神が前方においてくださったゴールに目をとめているだけだ。つまり、イエスをひたすら見つめている。走ったり休んだりしながら、とにかく、後ろは振り向かずに、わたしはそうしている。
―― フィリピの信徒への手紙3章13~14節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。