9月10日「よそ者はいない」

 多くの人が、多くの場合、「取り残された」と感じている。「上手くかみ合っていない」あるいは「きちんと所属していない」と感じている。他方で「インサイダー」と呼ばれている人々がいる。その人たちは自分に絶大なる自信を持っているように見える。彼らは物ごとを上手に為すこつを心得ていて、わたしたちが入れない「クラブ」に出入りして、その古株たちと顔なじみなのである。

 このような状況に対応する一つの方法は、自分自身のクラブを作るか、あるいは受け容れてくれるクラブに参加することである。だが、それでよいのだろうか。どうしても、誰かが排除されてしまう。つまり、わたしたちが「参加出来る」クラブがあっても、そこに「参加出来ない」誰かが生まれる。形式ばったクラブや形式ばらないクラブもある。政治的、社会的、文化的、経済的という様々なクラブもあり得る。だが、どんなクラブにも一つの共通点がある。それは「排除の論理」だ。人々の「アイデンティティー」あるいは「価値」というものは、結局、選ばれた人たち以外を全て排除することだけで、獲得されるものなのだ。仲間意識には密の味がある。それを享受するために、わたしたちは恐るべき犠牲を払っている。「他の人々」を排除することで初めて、わたしたちは仲間意識を味わう。しかしそれは、結局、現実を矮小化(わいしょうか)し、また人生を縮小してしまう。

 こうした犠牲は、宗教によっても引き起こされている。これほど愚かなことは、他にはない。しかし、宗教には、その愚かなことをしてきた長い歴史がある。「クラブ」の規則に殉じるために、大いなる神の秘儀を縮小させたり、あるいは、巨大なはずの共同体を「会員制」に縮小するという愚かなことを行ってきた。しかし、神にとって、実に、排除されるべき「よそ者」など誰一人もいない。
 

神はユダヤ人以外の「よそ者」の神である。ユダヤ人の「インサイダー」の神であるのと、まったく等しく、神はユダヤ人以外の「よそ者」の神である。もしそうでなかったなら、どうして神は「唯一の神」であり得るだろうか。神は、その御業を歓迎する全ての人、その御業に加わる全ての人を認め給う。神がお認めになるのは、わたしたちの宗教組織に連なる人と、そして、わたしたちの宗教について何も聞いたことがない人、その両方なのだ。
 ―― ローマの信徒への手紙3章29b~30節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
書籍のお求めは、ヨベルオンライン公式ストアアマゾンストアで

この記事もおすすめ