9月3日「親密さと超越性」

 世俗主義は危険である。それは人間が充実した人生を送るために必要な「二つのもの」を疎外し跡形もなく消し去ってしまう。人々はそのことに気づき始めている。世俗主義が脅かす二つのものとは「親密さ」と「超越性」である。「親密さ」とは、人間の愛や信頼や喜びを経験したいことである。「超越性」とは神聖な愛と信頼と喜びを経験したいことである。どちらにしても、わたしたちは一人で出来るのもではない。わたしたちは自分で「自分自身をより」人間らしくすることはできはない。BMWを運転したり、帽子を被り、ガウンを着て各種のアカデミックな学位を取ることで、結果的には、よりよき仕事に就き、より多くのことを為し、よりよいことが出来るだろう。しかしそれで、自分が「よりよい自分」になるわけではない。わたしたちは人間の触れ合いを必要としている。自分たちの名前を知っている人がいて欲しいと願う。そのような「親密」な関係の中に置かれて初めて、わたしたちは「自分らしさ」を確認できる。わたしたちは、自分の人生を祝福して欲しいと切実に願う。わたしたちは神聖な意味づけが人生に与えられなければ耐えられない。「超越性」という接触によって初めて、わたしたちは「自分らしさ」を確認できる。

 だから、「スピリチュアリティー=霊性」が一夜にして北米の数百万の熱狂の的となったのだろう。というのも、スピリチュアリティーこそ親密さと超越性が融合したものだからだ。人々は自分の「人生を充実させよう」ともがいて、その願いを叶えられずにいる。多くの人々は「親密さ」と「超越性」に関してひどい訓練を受けてきている。だから、そのような人々が「親密さ」と「超越性」を上手く探求できない可能性があるのも驚くに値しない。身近にあるもの多くが「親密さ」親近感を与える。 ―― セックスやコカインで ―― それらがまるで本物の「親密さ」を与えると錯覚している。あるいは神秘の感覚を引き起こすものも沢山あり、それは「超越性」を実感させる。 ―― 多くのエキゾチックな「マントラ」やスリリングな「急流下り」など ―― それらがまるで本物の「超越性」に触れさせてくれると錯覚している。

 そのような事柄に飽き飽きしている人々が、米国に溢れている。そしてジタバタとしている男女をわたしはこの目で見ている。たとえば、米国の男女が、年に一度のバレンタインカード程度のものを必死に交換している。自分たちの尊厳を守るために支払う努力  ―― それは実に見上げたものである。何とかして「親密さ」を自分のものにしたい、何とかして「超越性」に触れたいと、多くの人が強く望んでいる。その欲望がこの北米大陸で今再び興起(こうき)していることには勇気づけられる。それは最も人間らしく本質的な欲望だからだ。しかし、その欲望が知らず知らずの内に悪い方向へと助長されていることは残念なことである。
 

わたしはあなたがたを孤児として置き去りにはしない。すぐ戻ってくる。ほんのしばらくしたら、もうわたしのことを、この世は見なくなる。でも、あなたがたはわたしを見るようになる。何故なら、わたしが生きているのだから。そして、あなたがたも、まさに今、生きるものとなるのだから。その時、あなたがたもわかるだろう。わたしが父の内にいることを。そして、あなたがたはわたしの内にいることを。そして、わたしはあなたがたの内にいることを。
 ―― ヨハネによる福音書14章18~20節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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