9月1日「病的な証拠」

もし、あなたの友達全員が「消化器について」あれこれと急に話し始めたらどうだろうか。消化器の症状を比較したり、忠告しようと電話をかけてきたり、治療薬を変えようとしたり ―― あなたの周りで、みんながそう始めたらどう思うだろうか。その時、あなたは「わたしの消化器、大丈夫かな?」と思うだろう。ちょうどそれと同じようなことが「スピリチュアリティー=霊性」に関して起こっている。確かに、スピリチュアリティーへの関心は、北米では、広く高まっている。でも、それが「北米の魂が盛んな状態」だと、わたしには思えない。

消化機能が健全な状態にある人は、特段そのことを話したりしない。同様に、魂が健全な状態にある人は、特段それについて話したりしない。わたしたちの体や魂が健やかに働いている時には、ほぼ間違いなく、そのことに気づくこともないだろう。「スピリチュアリティー」という言葉が今しばしば聞かれるのは、健全な証拠ではなく、むしろ病的な証拠といえよう。

わたしは、そのように考えて「スピリチュアリティーへ最新の関心」を「病的なもの」だと無視しているのではない。「関心そのもの」が病ではなく、「ある病」が関心を惹き起こしている。適切な治療方法が分からず、混乱が大きくなっている。しかし診断については、事実上、はっきりしている。つまり、わたしたちの蝕(むしば)む病とは「文化の世俗化」である。

しかし、わたしたちには、病気よりも優れた治療法がある。原初の混沌の上を舞っていた(創世記1章2節)神の御霊が残忍で混沌とした街の上を舞っている。イエスに鳩のように降りた聖霊(マタイ3章16節)は、今、イエスを信じる者にも降る。この聖霊はペンテコステの時、神がエルサレムで朝9時にいた多くの男女たちに満たしたことは、今なおシカゴでも、カルカッタでも、モスクワでも、モントリオールでも、いつでも一年中ずっと、わたしたちの間に満ち溢れておられる。

イエスは洗礼のために水に沈み、そして立ち上がった。その時、天が開け、ヨハネが神の御霊がイエスの上に降って来るのを見た ―― 神の御霊は鳩のように見えた。御霊が続きて、ある声が聞こえてきた。「これはわたしの愛する子。わたしの愛によって選ばれた特別な者。彼こそがわたしの悦びだ」と。
―― マタイによる福音書3章16~17節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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