礼拝の行為とは罪によって乱されたわたしたちの共通の生活の全てが集められ、それら全てを神の支配力の御前に持ち出すことである。同時に、礼拝の行為はわたしたちが忙しさで散漫になり忘却されている全てを神の啓示へと寄せ集めることである。さらに、わたしたちが賛美や服従をもってささげることが出来るように、礼拝の行為はそれら全てをわたしたちの前に差し出す。これら全てが、ほんの一時間という礼拝で起こるのではない。一週間また一週間と一年また一年と繰り返し、全きものへと向かう積み重ねがあるのだ。
神と子羊の玉座が都の中心にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや夜はなく、ともしびの火の光も太陽の光も要らない。
―― ヨハネの黙示録22章3b~5節a
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。