福音によってわたしたちは、神の生命を受けて始まる人生へと導かれる。神は神の愛をわたしたちに注ぐのだ。憐れみ深い神は赦(ゆる)しへの入り口を用意される。それら全ては非常に浮き浮きさせる。そこには食欲や衝動、あるいは取り上げる・握りしめる、といった命の基本的次元を超えて、しっかりとして巨大な進展を示す人生が用意されている。わたしたちは信仰の歩みに乗り出している。わたしたちは自由になる。わたしたちは希望に満ち溢れている。わたしたちは以前とは比べものにならないほどに、より真剣に、より豊かに生きている。
ところで、そのように始めた歩みだが、次はどうなるのだろうか。愛に続く次のステップは何なのだろうか? 用心深い疑惑なのだろうか? それは馬鹿げている。信仰に続く次のステップは何なのだろうか? 神を不快にするものを何とか避けようと努力し心配することが続くのだろうか? それも馬鹿げている。恵みに続くステップは何なのだろうか? ずる賢く神と取引することなのだろうか? それも馬鹿げている。それは丁度つぎのようなものである。 ―― 「代数学を学んだので、次は元に戻って指を折り数を数えてみよう」、と。
パウロは「頭を使え」という。常識があなたを守り、恵みの福音を放棄することがないようにしてくれる。ただ福音に根を張り続けているからこそ、わたしたちは愛と赦しと惠みの偉大な真理を日常の色々な課題に応用出来るのである。
あなたがたはこのような狂ったことを続けるのか? 狂人だけが、神が始めたことを自分自身の努力で完成できると考えるのだ。それを始めるだけの知恵や力がないのであれば、如何してそれを全うできると考えるのか? 痛みを覚えるような学びの全過程を通過した上で、それが全部無駄になる。そんなことをするのか? そんなことを続けていたら、今は大丈夫と見えても、これから間違いなく全てを台なしにすることになるだろう!
―― ガラテヤの信徒への手紙3章3節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。