8月16日「贖い」

 福音はわたしたちが贖(あがな)われる物語を話すことによって、奴隷状態の経験を無効にするのだ。「わたしたちはこの宇宙のすさまじい霊の奴隷であった。神は、時が満ちた時、御子を遣わした。わたしたちが養子の子どもとして受け入れるために、御子は乙女より生まれ、律法のもとに誕生させた。律法のもとで生きている人々を贖うために。」このようなアクション満載の文章は、全てのわたしたちのためにキリストの偉大な力強い御業の描写である。そのみ言葉の一つの言葉が、わたしたちは「贖い」に値する者であると述べる。

 パウロを知る全ての読者は、一世紀のギリシャ世界の奴隷たちが解放される経緯を身近に知っていた。「贖う」という言葉は奴隷解放の経緯を述べる。しばしば裕福な自由市民は、奴隷に関心を寄せていた。その理由は様々である。つまり、憐れみ・愛情・正義という理由から、時に自由市民は奴隷を解放する判断を下したのだ。そして奴隷解放に必要なお金を携えて神殿に行き、祭司にそれを渡すと、祭司は次のような託宣を述べたのだ。「アポロ神が、だれそれの奴隷をしかじかの所有者から買い上げた。この奴隷は今や自由である」と告げる。そして、祭司は奴隷の所有者であった人に、「贖いのお金」を渡すのである。これで事柄は完了するのだ。奴隷は、その奴隷の立場を脱する。それまでその人生は劣った者と見なされ、「誰かの使い走りとして役立つかどうか」だけを見られ、他も人の仕事のために働いていた男奴隷や女奴隷が、もはやそのような評価を受けることのない立場になるのだ。その人は自由になったのだ。彼に値段が付けられることは二度と起こり得なかった。もはやその人が何かを「行う」ことで価値があるのではなく、その人で「ある」ことで価値があることに変わったのだ。
 以上の事柄は、パウロが述べるとおり、わたしたちが一人ひとりに起ったことなのだ。わたしたちは贖いのために選び出されたのだ。

しかし、時が満ちると、父なる神は、その御子を私たちの乙女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下に人質になっていた者を贖い出して、わたしたちを正しい生まれながらの権利を経験するようにと自由にしてくださった。
―― ガラテヤの信徒への手紙4章4~5節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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