8月5日「わたしたちの言葉」

どうやら、あるところで何かが間違ってしまったようだ。「創世記には、そうした物語が、同じように書かれている」。修正が何としても不可欠である。その修正とは、神が救いを話すことで、完全に達成される。―― 神は救いをイエスという人格の中で、現実のものへと語っている。神は救いを語る。ここで言う「イエス」というのは「神の言葉を語る方」だけではなく、「神の言葉そのもの」でもある。

 この「神の言葉そのもの」と共に過ごし続けると、「わたしたちの言葉」について、考えが変わり始める。それが思った以上に大切なことに気づき始める。例えば、「わたしは信じる」という言葉は、生死を分けるような違いをもたらす言葉なのだ。「わたしたちの言葉」がイエスとの対話の中で、威厳と重大さを生み出す。というのも、イエスは「救い」を「問題の解決」として押し付けることはしない。そうではなく、「ゆったりとしたイエスとの対話」「親密な人格的な関係」「思いやりのある応答」「篤い祈り」という事柄を「犠牲としての死」と一つにすることで「救い」が実現する。わたしたちはそのような言葉から不用意に立ち去ることはしない。

御子は神を完全に映す鏡である。
神の本質を刻み付けている。
その語る言葉によって、
御子はすべてを一つにまとめ、保持される。
―― なんと力強い言葉だろうか!
―― ヘブライ人への手紙1章3節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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