「自我の王国」は重装備で防御されている。エデンの園から堕落した後も、アダムとエバは喜んで神に敬意を払っていたいと望んでいた。だが、自分たちの縄張りに神が侵入することは望まない。罪というのは、そのほとんどが、単なる道徳的な失敗や意志の弱さとは全く違う、神が侵入しないように張られた防衛線である。その防衛線とは予算も労力も十分にかけられている。戦線布告された戦争のように、堂々と「神に祭られた自己」に対する攻撃をしかけても、全く効果がない。「罪を真正面から打つ」ことは、「かなずちで釘を打つ」ことに似ている。
つまり、それは「罪」や「釘」をより深く、深く打ち込むようなものだ。ただ、その例外もある。戦略的に指示された攻撃もある。ただし、それは裏をかく手法である。それは聖書的な手段となる。
イエスは転覆の名士だ。最後の最後まで、弟子たちも含め、全ての者がイエスをラビと呼んでいた。ラビは重要だが、彼らは「何一つ新しいことを起こさない人々」であった。「ラビらしからぬことがイエスの周りで起こっている」と疑われるような時、イエスは努めて静かに、こう言った。 ―― 「誰にも話すな」と。(ルカ5章14節)
イエスは言われた。天の国はパン種に似ている。女が大麦のパン生地に働きかけて、パン生地が膨れ上がるのを待つようなものである。
―― マタイによる福音書13章33節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。