ある意味で町において、クリスチャンこそ、市井の人々の中で「もっとも信心深くない人々」である ―― 実に、「わたしたちは信じない!」ということが町に溢れている。わたしたちは魔よけの護符を信じない。星占い、運勢や運命も信じない。この世界にある約束された未来も、この世界にはびこる呪いも信じない。それだけではない。これはしばしば驚くことだが、わたしたちは「立派な業績」も信じない。
ガラテヤ書2章16節で、パウロは「律法の働きではなく」ということを三回も繰り返す。そうすることで、パウロは特別なことを表現している。「律法の働き」という言葉で、神から褒めていただこうとする何かを誇示することが意図されている。あるいは、自分だけが助かるための宗教的行動や道徳的行動を意味する。それは誰か他人かあるいは神が見ているという理由で、行うよい行動あるいは宗教的な行動が、そこで表現されている。つまり、誰か他人が、あるいは神が見ている、という理由で誇示される「よいふるまい」あるいは「宗教的な態度」のことが「律法の働き」という言葉で表現されている。パフォーマンスによって、見せ物として、実績として積みあげる ―― そのような類の生き方が、この言葉で表現され、否定されている。当然だが、そうした生き方をする人は、牢屋に入っている人のように自由を失っている。というのも、いつも他人の目を気にしているからだ。喜びそのものを目標として業績を上げる、そのようなことは、わたしたちには出来ない。業績は必ず誰かに誇示されるもの。また、生きている中で「それは正しい」と感じるから、わたしたちは実績を積み上げて行ける。
一つの問いに、答えて欲しい。
あなたの新たな人生は
一体どうして始まったのか?
一生懸命に神を喜ばせるために
始まったのか?
そうではなくて、神があなたに送った
メッセージに応えて始まったのか?
―― ガラテヤの信徒への手紙3章2節