6月26日「『大目にみる』と『責める』」

 「大目にみること」は、感傷的なヒューマニストのやり方である。感傷的なヒューマニストは、自分のせいで誰かが傷つくことに堪えられずに「マキロン」や「バンドエイド」のような手軽な処置で全て解決したがる。「責めること」は執念深い野蛮人のやり方である。自分自身と向き合うことが出来ない野蛮な人々は、自分が責任を取らされないようにすることで、全てを解決したがる。「大目に見る」ことも「責める」ことも両者とも間違っている。一つの同じ理由からそう言える。つまりどちらも「他人の尊厳」を真剣に受け止めることを拒み「人格を賭けて行った選択は人格に関わる結果を生む」ということを受け入れることを拒んでいる ―― だから、間違っている。神の約束を真剣に考えることを拒んでいるために、間違っている。つまり「悪の中から善を見出す神」「苦しみの中から癒しをもたらす神」「無秩序の中に平和をもたらす神」「十字架の中に復活をもたらす神」などを信じられないと決め込んでいるから、だ。つまり「大目に見る」ことと「責める」こととはイエス・キリストを信じることを拒むことである。

イエスは立ち上がり、彼女にこう言った。
「あの人たちは、どこにいますか。誰も、あなたを責めなかったのですか。」
彼女は答えた。
「誰も責めませんでした。主よ。」
イエスは言った。
「わたしも、あなたを責めません。さあ行きなさい。
今から後、罪を犯さないように。」
―― ヨハネによる福音書8章10~11節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
書籍のお求めは、ヨベルオンライン公式ストアアマゾンストアで

この記事もおすすめ