6月19日「選択は自由」

 クリスチャンは決定論者ではない。「環境によって人はクリスチャンになる」とわたしたちは信じていない。また「遺伝が正しい人格を作る」ことも信じない。「訓練によって人が道徳的になる」ことも信じない。「洗礼が信仰的な人格を生み出す」ことも信じない。「性別によらずに人はすべて、神に従うのか、従わないのかを決める存在である」ということを、キリスト教神学は主張して譲らない。全ての人生は、そのような積み重ねと言える。その決断は、各個人固有の権利である。誰も、それに干渉することは出来ない。選択は自由になされ、決断はあらゆる可能性に開かれている。生まれがどうであれ、育ちがどうであれ、誰もが「神に従うか、逆らうか」を選択することが出来る。「意思決定の谷 そこに群がる 群衆、群衆!」(ヨエル書4章14節)とある通りである。実際、そうして「群衆」の中に「神に逆らう」と「神に従う」の両方の選択が個別に行われている。「正しい選択ができるかどうか」と「育てられた環境」との間に明確な相互関係は全く存在していない。例えば「クリスチャンホームで育った人の全てがキリスト教的な選択をする」とか「クリスチャンホームでない家庭で育った人の全てがキリスト教的な選びをしない」ということは起こらない。

出来ることなら、今の倍の努力をしなさい。
救われた人生を、元気よく進みなさい。
神の御前に敬虔な思いを抱き、
方向感覚を研ぎ澄まさせながら歩みなさい。
―― フィリピの信徒への手紙2章12b節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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