6月6日「犠牲」

詩編5編はヘブライ人の朝の祈りである

 わたしたちが寝ている時も、わたしたちの助けがない時でも、神の働きは始まっている。そして、わたしたちが礼拝し、服従する日々を通して、神の働きは続いている。犠牲にすることとは、神に働きかけてもらうために、神の御前に生き方を整える重要な手段である。犠牲とは神の御前に人生を結集させるためのもの。それによって神がわたしたちの人生に働いてくださる。礼拝では「犠牲」がささげられる。しかし「わたしたちが神のために何かを行うこと」は「犠牲」ではない。犠牲とは「神に人生のある部分をささげて神と共に何かを行うこと」である。犠牲をささげる祭壇の上で、犠牲のささげものは「神が喜ぶこと」と「神に受け入れられること」に変えられる。奉献・献金という儀式の中で、わたしたちは所有しているものを手放し、そのささげものを通して、神が何を行うかを見て行く。わたしたちに命を吹き込んでくださる神はわたしたちに耳を傾けてくださる。それを深く意識しながら、今後、予測される困難や喜びを、わたしたちは言葉で言い表す。恐れや希望や不安や期待を抱いて、わたしたちはそれをささげものとして祭壇の上に置いて、こう言う「犠牲のささげものを備えました。わたしはここで見ています」、と。

来る朝ごとに
わたしは自分の人生を
御前に備え ささげます
祭壇の上に あなたの不思議を
期待して 天からの火を 待ち望みつつ
―― 詩編5編3節b

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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