6月1日「祈りの共同体」

祈りの民がいる。その祈りは詩編であり、礼拝の共同体として祈っていたのである。詩編は全て、共同体の中でささげられた祈りである。集められた人々は、神の御前で心を一つにし、一つの姿勢、一つの動き、一つの言葉を用いて一つになって、自分自身を神に奉献し、また互いに神にささげる。祈りは個人的にするものではなく、一族を召集して行うものである。

神の御前では、「独り」はよくない。エバを呼べ。同じように友人を招きなさい。主イエスも「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18章20節)と言われた。わたしたちは独りの状態では、本当の自分ではない。「独房」こそ(地獄の苦しみを味わわせる罰というほどの意味。)である。「独りで祈ること」で、人はどこまでも利己的になって行く。ただ祈ればよいというものではない。「独りで祈ること」を実践している人は無作為の罪の深みに嵌(はま)ることもある。計算高いエゴイズムに落ちこむこともある。あるいは「高慢に満ちた虚偽」を膨れ上がらせることもあり得る。「祈りは素晴らしい」と語っていたイエスも無差別に祈りを称賛したわけではない。実際、その祈りをイエスによって厳しく叱責された人もいたのである。

祈りは往々にして「独りでいる時」に生まれる。心の奥底には「言葉には出来ない深いため息」がある。わたしたちは祈りの中で自分の罪を告白し、自分の傷を見つめ、喜びを語るが、それはその場で行うのだ。「教会の仲間を待ってから」とか「教会に行ってから」行うのではない。それでもやはり、このような祈りが豊かに成熟するためには、「祈りの共同体」の中へと組み込まれなければならない。

その上で、なお「孤独な祈り」は続く。わたしたちは夜ベットで祈る。神を信じない人々の只中で、静かに、そして密かに祈る。ウイリアム・ブレイクは「認識の扉」と書いている。そういう「扉」がわたしたちにはある。その「扉」を清めるために社会から意図的に退く時がある。わたしたちは他の人々と何時も共にいることは出来ない。また、そうすべきでもない。ただ、わたしたちは絶えず神と共にいるのである。

そして、所定の場所で決められた時間に指定された場所で行われる礼拝がある。それこそ、祈りの「土台」である。全ての詩編がそのような共同体で祈られた。これは外見からでは分からない。わたしたちは「草原の斜面にいる羊飼い」とか「危険な旅路を歩く人」こそ詩編のイメージだと思いがちである。しかし、共同体の中で詩編が生まれ継承されたことはイスラエルや教会でどんな実践が為されていたかを調べた研究によって確かめられたことである。詩編はそのように生み出され、祈りに用いられてきたのである。ですから、祈る教会の仲間と共にわたしたちが祈る時、詩編の祈りと、わたしたちの祈りとがぴったりと一つになる。

こここそまさに 偉大なる
神とまみえる 集会所
ここで賛美の人生を
わたしは確かに 知りました。
ここで約束したことを
わたしは確かに果たすでしょう。
ともにまみえた 仲間に誓って
―― 詩編22編25節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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