5月27日「グノーシス主義のウイルス」

 「もっとチャレンジを」とか「もっとたくさんのチャンスがあるところへ」という言葉によって、わたしたちは不安になってしまう。そうして言葉が発せられる時、わたしたちの立ち位置や願いは「預言者の熱意」とも「祭司の信仰」とも無関係なものになる。そのような言葉は「霊的な罪」によって生み出されるもの。その「罪」とは「グノーシス主義」のウイルスが引き起こすものである。

 「グノーシス主義」は古代のものだが、それは「福音の曲解」となって、しぶとく現代の問題でもある。それは「空間」と「物質」を軽蔑する仕方で、福音を捻じ曲げる。「グノーシス主義」は、いつも「正しい理念を持つこと。そこに救いがある。その理念は空想的であればあるほどよい」と主張する。「時間と空間」による制約が我慢できず、日常生活のこまごましたことや無秩序を前にすると、ただ困惑してしまうという特徴がある。そして「イエスの言葉に彩られた素晴らしい気持ち」を持つことこそが「福音」であるとする。だが、飲み込みの遅い人々や歩みの遅い仲間たちに我慢が出来ない。「霊的に深い」という人々が集まると、そこにあるエリート主義が共鳴し合い「卓越した人」だけの秘密結社の様相を呈して「グノーシス主義」に惹きこまれていく。「グノーシス主義」はいつも結果的に人を選ぶことになる。

 「福音」は、「グノーシス主義」と正反対である。「福音」を理解することは、地に足を付けている知性である。「福音」は地に足をつける形で活用される。「肉体」とか「物質」とか「空間」の中へと大きな情熱を投じて行く。その場にいるどんな人も「神の民」として受け入れるのが「福音」の立場なのだ。当たり前の日常がいつも尊ばれるようにすること ―― それは、牧師がいつも見つめる目標の一つである。つまり「この場所」がそのままに、「この人々」が普段着のままで、大切にされることである。ウェンデル・ベリー【1934 ― 、米国の作家】がその著書「家庭の経済学」に書いたこと ―― 「地に足の付いた事柄がひとつずつ大切にされ、地に足が付いた知識と真心が立ち上がってくる」ということを、それがわたしたち牧師が目指していることである。

トロアスのカルポに置いてきた
  外套を持ってきてください。
それから、書物と羊皮紙のノートを
  持ってきてください。
―― テモテへの手紙(二)4章13節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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