5月26日「祈る衝動」

 わたしたちには祈る衝動がないわけではない。さらに、祈りのリクエストが欠乏しているわけでもない。祈りたい願いと、祈らねばという必要は、いつもわたしたちの前にある。それなのになぜ、多くの人々は祈りをせずに生きているのだろうか。理由は単純である。「井戸が深く、水を汲みあげる道具がないから」である。わたしたちには「バケツ」が必要である。水を汲む容器が必要なのだ。「願い」と「必要」は「バケツ」ではなく「ざる」のようなもの。その「ざる」にぴったり合う容器が必要なのだ。つまり「ヤコブの井戸」の深いところにある神の臨在と神の言葉へ「願い」と「必要」を与え、その後、また井戸の口まで引き上げる道具が必要なのだ。詩編がその「バケツ」である。

イエスは言われた。
「あなたがたに行って欲しいことがある。
わたしがあなたがたに示すことは
  何でも父なる神に願いなさい。
わたしの名で、わたしの意志に従って、求めなさい。そうしたら、神はきっと、必ず与えてくださり、
あなたの内には喜びがあふれるだろう。
その喜びは、
  土手を超えて溢れ出る洪水のようになるだろう。
―― ヨハネによる福音書16章26節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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