5月20日「深刻な背教行為」

 キリストが示すリーダーシップに従わない宗教がある。そうした宗教を自分の宗教とするのが何千とある。みんな、そうした宗教の教えをそのまま守って生きている。わたしたちは金の子牛の国に住んでいる。宗教的な感情は高まっているが、多くの場合「シナイ山で語られたこと」や「カルバリで行われたこと」からは、かけ離れた生活を送っている。誰もが「神を知りたい」と願っている。その願いは深く、飽くことのないものだが、わたしたちの誰一人も「神に対して大きな願望」を抱かない。わたしたちは何を本当に望んでいるだろうか。それは自分たちが「自分自身の神」となることと「周りにいて具体的に働き、自分たちを助けてくれる神々」を手に入れることである。わたしたちは幼い頃から、「目利きの消費者」になるように訓練されている。だから、教会に集う人々はわたしたち牧師たちに「目利きの消費者」になるよう期待するのだ。それは牧師たちにとって特別に驚くべきことではない。しかし、牧師がそれを助長するべきではない。それに協力することは、深刻な背教行為である。出エジプト記32章21節にモーセがアロンに次のように言ったと書かれている。「あなたはこの民に罪を持ち込んだ。『民がわたしをしてそうさせたのだ』と、あなたは言う。この民は、あなたに一体何をしたのか」と。問われたモーセに対するアロンの弁解は、恥ずかしいほどに、お粗末なものであったのだ。だが、牧師たちは、会衆を繁栄させ成功させようと熱心になり礼拝を放棄している。そのようなわたしたち牧師は、アロンと少しも変わらない。

イエスは言われた。「あなたがたが提示しているのは生ける神であって、自分の気分をよくしてくれる偶像ではないことを。このことに気がつくと、みんな、あなたに敵意を抱くようになる。あなたの家族までもが、そうなる。ここに大きな皮肉がある。愛を大いに宣べ伝えているのに、経験するのは憎しみばかり、というアイロニーがここにある。
―― マタイによる福音書10章21~22a節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
書籍のお求めは、ヨベルオンライン公式ストアアマゾンストアで

この記事もおすすめ