5月17日「魚の腹の中で」

 嵐に遭遇したヨナは、それでも、溺れなかった。ヨナは大きな魚に呑み込まれ、それで救われた。ヨナが新たに救われた中で取った最初の行動は祈りであった。

 ここに物語の中核がある。魚の腹の中に物語の中核が位置づけられている。「宗教者として成功したい」という願いは、まず水の中に没する。その後「牧師として生きよう」という召命が、復活の力によって現れる。「呼び出された者」に相応しい存在へとわたしたちは変えられる。祈りが、わたしたちをそう変える。「魚の腹の中」での祈りによって、わたしたちは新しい一歩を踏み出すようになる。

 「魚の腹の中」とはどういう所だろうか。そこは閉じ込められ、窮屈で、狭い場所である。ヨナの場合は、その反対方向へと向かったのだ。つまり西の地平線に向かう「タルシシュ行きの船」に乗って出発したのだ。 ―― 限りなく広がる海の先にはジブラルタル海峡があり、そしてさらに遠くへと航路は広がっていた。その広がりの神秘がヨナを魅了し未知への憧れを喚起した。神話で語られる「ヘラクレスの門」「アトランティス大陸」「ヘスぺリデス島【太古の時代に生まれた妖精の国】」そして「この世界の北限」 ―― そうしたものがヨナの到着を待っている。ヨナはそう感じたのである。

 実に、宗教こそは常にこのような輝く野望をけしかける。さらに、人を興奮させ刺激をもてあそび「完全で十全なものになる」と駆り立てる。ヨナは、このような強力な万能薬でわくわくしながら自信満々、順風満帆に海原を進んで行った。順風は香り、塩の味がピリピリする。ヨナは神の御手の内に守られスリル溢れることを深く感じていた。だがすべてが逆転し、ヨナは「魚の腹の中」にいる自分を見出したのだ。

 魚の腹の中はヨナが考えていたことと正反対な全く魅力のない場所だった。「魚の腹の中」は暗く、湿っぽい、恐らく凄まじい臭いのする牢獄だった。その「魚の腹の中」が「アスケーシス(自己修練)」への序奏でもあった。

 「アスケーシス(自己修練)」とは何だろうか。それは「霊性=スピリチュアリティー」にとっては、アスリートの「トレーニング計画」のようなものである。「トレーニング計画」は「トレーニング」そのものとは違う。それと同様に「アスケーシス(自己修練)」は「魚の腹の中」や「嵐の中」では必要不可欠なものである。それなしには「魚の中」に張り巡らされた分泌管や、あるいは「嵐の中」の荒れ狂う天候によって、唯々翻弄させられるだろう。自己修練は、才能は閉じ込められることによって成長する、魔人ジーニーは、アラジンの魔法のランプの中に閉じ込められることによって生まれる、という古い芸術的な考え方に相当するものである。

イエスは言われた。
「誰でも、わたしに従ってきたいと思う者は、
わたしに主導権を渡せ。
運転席に居座ってはいけない。
わたしが運転するのだ。
苦難から逃げるな。苦難を抱きしめなさい。
わたしに従いなさい。
どうすればよいか、わたしが教えよう。
『自助』は、全く『何の助け』にもならないのだから。」
―― マルコによる福音書8章34節b

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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