一つの石が、わたしの関心を惹きつける。小川の石である。ゴリアトと戦うダビデが探して選んでくれるのをじっと待っている石である。その時、ダビデは「ソウル王の鎧兜(よろいかぶと)」を勧められたが、断ってしまう。ダビデは「銅のヘルメット」と「鎖帷子(くさりかたびら)」をつけるように勧められた。それはよく考えられた提案である。でも、その提案に乗っていたら、悲惨な結果となっただろう。ダビデは自分にとって真実信頼できるものを必要としていたのである。それはまさに、わたしにも同じことが言える。世間が「科学」や「知識」という文化的な姿をとって「これがあなたの武器だ」と何かを押し付けてくる。それは非常に優れたものである。しかし、外から押し付けられたものでは結局うまく使いこなすことが出来ない。その「鉄の鎧」がわたしの体型にあっていて「それを身に付ければ堂々としたものになる」と思えたとしても、それは、わたしが本来の仕事をする助けにはならない。
そこで、わたしは「聖書の小川」の川辺に跪(ひざまず)く。その川辺には、神が長い間、目の前の仕事のために準備してきたものがある。そして、わたしは「つるつるとした石」を手に取る。その石は、ゴツゴツな部分は削り取られ、脆弱(ぜいじゃく)な部分も水で溶かされている。むき出しで、がっしりとし、どこにも余計なものがなく、飾りっ気も全くない。清潔に取り置いた、特別なもの ―― 聖書のその特質はわたしのための特質でもある。つまり、「どうしても必要なもの」あるいは「必要に応えるもの」が聖書にはある。わたしは再び、膨大なガラクタから解放されながら、身軽に旅をしていると感じる。
聖書の一言一言に、神は息を吹き込まれた。それは、色々な場面で役に立つものである。 ―― 真理をわたしたちに示し、わたしたちの造反を暴露し、わたしたちの過ちを矯正し、神の道を歩んで生きるわたしたちを訓練する。聖書の言葉を通して、わたしたちは一つとされ、神がわたしたちに用意された役割に相応しく整えられる。
―― テモテへの手紙(二)3章16~17節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。