「与えること」こそ、わたしたちが最も得意とするところである。わたしたちは「与えること」が当然な世界へと生まれてきたのである。「与えること」とは、わたしたちが産まれる前からデザインされてきたのである。「与えること」とは、世界の在り様である。神はわたしたちの誰一人にも例外なくそのようにしている。わたしたちは自分たちの家族、隣人、友人たち、敵たちへの ―― つまり、諸国の民に賜物として贈られている。わたしたちの人生は他者のためにある。創造的な御業(みわざ)は、そのように展開されて行くのである。必死に「自分」を握りしめ、「自分」のために生きようとする人がいる。それはどうも、哀れでみじめな姿に見える。つまり、大切な人生を守ろうとして「預金口座」という枯れ枝に一生懸命にしがみつく姿である。あるいは、「自分」を危険に曝(さら)すことを恐れて、「与えること」という翼を試すことができない姿である。「寛大になってみよう」と試みてみないために、わたしたちは「寛大な心をもって生きることができない」と考えてしまう。しかし、早く試した方がよいのである。早ければ、早いほど、よりよい結果が与えられるのである。なぜならば、わたしたちは最終的に自分の人生を放棄しなければならない。「与えること」という翼を使って、わたしたちは舞い上がり、また舞い降りることが出来る。待てば、待つほど広大でワクワクする恵みの人生のための時間がなくなって行く。
「いつの日にか、施すことが出来るように」と、神があなたがたによいものを与えている。神はあなたがたの人生を完全なもので満たして行かれる。あなたがたは神の内にあって固く建てられ、あらゆる面で豊かになる。その結果、あなたがたは、あらゆる面で寛大に振る舞うことができ、そうしてわたしたち自身が神への賛美そのものとなるように整えられて行く。
―― コリントの信徒への手紙(二)9章11~12節