……教皇ピウス10世は次のように述べた。「人は神をどう褒め称えることができるか ―― このことを詩編は教える。特に、礼拝の日々を送るべく誓願を立てた人々たちに、詩編は大切なことを教えてくれる。」余りにも多くのものが今、危機に瀕(ひん)している。 ―― たとえば「神の御言葉に成熟すること」や「牧師の働きの誠実さ」「礼拝の健全さ」などだが危機に瀕している。 ―― 牧師たちが(大なり小なり陥りやすい)「祈りのカリキュラム」に手を出し選択して、祈りを学ぶことが出来る風潮である。医師が裏庭からハーブや雑草を取り出し薬を調合することが認められているように、牧師が自分の主観的な思い付きを組み合わせて祈りを学ぶことも許されている。しかし、祈りは情緒的な断片や職業上の義務感から作り出されてはならない。きちんとした教育や訓練がなければ、わたしたちの祈りは、まるで「わたしたちは食事の時に感謝をささげます。大きな罪を犯した時には罪を告白します。ロータリークラブのピクニックを祝福します。そして時宜に叶った導きを祈ります」という類いの、まるで旅行者が外国語の熟語集から覚えたような、ぎこちないものになるだろう。わたしたちは祈りを、ほんの数キロ「宗教的な国」を通過する僅(わず)かの間、何とか切り抜けるための特殊で付随的な言葉と考えてはいないだろうか? 断じてそうではない。祈りの言葉は、わたしたちの全生涯に関わる言葉である。わたしたちは自分が生活して行く国の言葉を流暢(りゅううちょう)に使いこなせるようにならなければならない。牧師が、あたかも職業上の義務として一週間ごとに提出を求められたレポートを作成するかのように、祈りを組み立てるために改めて言葉に注意を向けるようでは、お話にもならない。牧師は、「神への応答としての言葉」である祈りの複雑な文章と、その言葉を語るために必要なあらゆる点に関する「祈りの文法における修士資格者」であることが求められる。わたしたちは詩編を祈ることによって、牧師と周囲の人々に賞賛と愛と信仰について語りかける、いくつもの魂と肉体の断片を発見する。もちろん、詩編は牧師だけに与えられたものではない。クリスチャンであろうとユダヤ教徒であろうと、すべて祈る者は詩編の中に自分自身の祈りの「声」を発見する。しかし、他者のために祈る責任を持ち、人々に祈りを教える立場にある牧師が詩編について無知であったり、詩編を顧みないとすれば、それは職務怠慢と言われても仕方がない。聖アンブロシウス【340? ― 397.四世紀のミラノの司教(主教)。正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人】は彼独自の隠喩(いんゆ)を使い詩編を次のように述べる。全ての魂にとって、詩編はある種の体育館である。美徳を競う場所、ある種の競技場である。そこでは人々の目前に色々な種類の訓練が繰り広げられており、人々はその中から栄冠を手に入れるために、自分にもっとぴったりした訓練を選び取ることが出来る。と語っている。
……あなたは神の御言葉に
わくわくし
あなたはそれを
昼も夜もしゃぶる
―― 詩編1編2節