詩人は何かを説明するためではなく、何かを描写するためでもなく、何かを作りだすために、言葉を使うのである。詩人(poctc))という言葉はギリシャ語で「作りだす人」を意味する言葉に由来している。詩は客観的に説明する言葉ではなく、想像する言葉である。想像力を刺激しながら、詩は、リアリティーを作り出し、そこに参与するように、わたしたちを招くのである。詩を読む時、わたしたちは沢山の情報を得るのではなく、より深い体験をする。「詩とは、何が起こるかを確かめるものではない。そこで起こっているものの中に身を浸すことである。」デニス・レヴェルトフ【1923 ― 1997.英国出身の米国の詩人・エッセイスト。政治活動家】が『この世界の詩』で述べている。詩人でもある神学者によって書かれたのが「ヨハネの黙示録」である。もしそうであるなら、わたしたちは「ヨハネの黙示録」を「いつ、その出来事が起こることになるのか」という「年鑑」として読むべきではない。あるいは「年代記」のように「そもそも一体何が起こったのか」を読み取ってもいけない。
「ヨハネの黙示録」という聖書の最後の言葉は、詩人である聖ヨハネが担っている。このことは適切なことと思う。わたしたちが聖書を読み進む時、この最後の書に辿(たど)り着くまでに、わたしたちの前に置かれた神の完全な啓示をすでに受け取ることになる。救いのために必要なことの一つひとつが、この書の前に十分に書かれている。信仰生活をどう進めばよいのかに関して、人生に沿って教え導く全てが、この書の前までに書かれている。十分な情報が与えられていないということもない。ただし、慣れや倦怠感(けんたいかん)によって、モーセやイザヤやエゼキエルやマルコやパウロという人々の素晴らしいものがわたしたちを取り囲んでいるのに、わたしたちがそれらに注意を払わなくなってしまう危険性はある。そのために、聖ヨハネはよく知られた聖書の言葉を選び、意表を突くようなリズムにアレンジして、わたしたちを目覚めさせるのである。そのように、わたしたちは「イエス・キリストの啓示」を全体像を、まるで初めて見るかのように、見ることとなる。
栄光と力はキリストにあるように。
わたしたちを愛してくださるキリストに。
その血をもって この生涯を 罪から洗い清めた方に。
わたしたちをも 神の御国に招き入れ 御父の前に 仕える祭司とした方に
とこしえまでも ―― そうだ今、キリストはここに向かいつつある。
―― ヨハネの黙示録1章5b~6節