あらゆる結婚とは、血筋という境界線を超えている。別々に存在した歴史が結びつくのが結婚である。その際、「侮辱」や「拒否」の出会いではなく、「感謝」と「賛美」の出会いが起こる。結婚とは「他者というものは一人ひとり全て、敵やライバルではなく、友であり、仲間であり、もしかすると愛してくれる人である」という証拠となるのが結婚である。
人々は可能性と期待に賭けて結婚に飛び込むが、その可能性や期待の全てが結婚を通して確証されるわけではない。結婚は「失敗するもの」でもある。結婚相手が「競争相手」となり、結婚相手を嫉妬し、脅威を感じ、互いに拒否し合ったりする。裏切りも起こる。それでも、この社会で何度も起こる愛の業(わざ)が結婚である。エズラ・パウンド【Ezra Weston Loomis Pound 1885 ~1972.米国で生まれ欧州で活躍した詩人・音楽家・批評家】が結婚に関して次のように過激な主張をする。
慈悲深い家族が一つあれば、
国家を一つ礼儀正しくすることが出来る。
貪欲なひねくれ者が一人いるだけで
国家は混沌へと落ち込むことが出来る。
……男は父や母を離れてから、その妻に愛情を注ぐ。その時、夫婦はもはや二人ではなく「一体」となる。これは巨大な神秘である。「それの全てを理解している」などというつもりはないが、一つはっきりしていることがある。その神秘を理解するためには「キリストがどう向き合っておられるか」を考えればよいということである。そこから「夫たち一人ひとりがその妻とどう向き合うべきか」が分かって来る。つまり「妻を愛すること」の内に「自分自身を愛すること」を見出せばよいということが分かる。そうすれば、妻たちは一人ひとり、その夫たちにとって、実に素晴らしい存在となるだろう。
― エフェソの信徒への手紙5章31~33節