1月21日「証し」

クリスチャンに相応しい仕事は証しであって、言い訳ではない。詩編124編はその最高のお手本である。その詩編は神の助けを論証せず、神の助けを釈明もしない。詩編は神の助けを歌の様式で証言している。その歌は非常に勢いがあり、非常に自信に満ち、現実としか言いようがないもので埋め尽くされている。わたしたちのアプローチや疑問等が根本的に変えられる。「何故それが自分に起こったのか? 何故わたしは見捨てられていると感じるのか?」という問いは、もはや最優先事項とは思えない。それどころか、「神がわたしたちの助けである」と自信満々で歌う人々がいるのは何故だろうかと問いたい。この詩編には説明されなければならないデータがあり、そのデータは非常に強固で、非常に重要で、わたしたちが一日中聞いている他のものよりも中身があり、非常に興味深いので、それらを処理してからでないと、泣き言のような愚痴には戻れない。

「主がわたしたちの味方でなかったなら、さあ、イスラエルよ言え。 ―― 主がわたしたちの味方でなかったなら、わたしたちに逆らう者たちが立ったとき、そのとき、わたしたちは生きながら敵意の炎に呑み込まれていたであろう。そのとき、大水がわたしたちを押し流し、激流がわたしたちを越えて行ったであろう。」【詩編124編1~4節】その証しはいきいきとして人から人へと広がる。一人の人がテーマを発表し、皆がそれに参加する。神の助けは個人的な経験ではなく、共同のリアリティーである。 ―― それは孤立無援の見知らぬ人の中で起こる例外なものではなく、神の民の間では当たり前のことである。

神がわたしたちの味方でなかったなら
 ― 全てのイスラエルよ今歌え。
 神がわたしたちの味方でなかったなら、
 全ての者がわたしたちに逆らい立った時
わたしたちは生きながら、敵意の炎に呑み込まれていたであろう……
― 詩編124編1~3節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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