詩編126編を書いた著者とその詩編を歌った人々は、物ごとの闇を全く知らない人々でないことが明らかである。彼らは骨身にしみついた追放の記憶と抑圧の傷跡を背負っていたのである。彼らは心の砂漠と夜毎に涙を流すことや、涙をもって種を蒔くことの意味をも知っていたのである。
クリスチャンが学ぶ最も興味深く注目に値することの一つは、笑いが泣くことを排除しないことである。クリスチャンの喜びとは、悲しみから逃れるためのものではない。痛みと困難は依然として襲って来るが、贖(あがな)われた者の幸せを追い出すことは出来ない。
喜びを獲得する中でよく知られ、かつ、役に立たない戦術は痛みを排除しようとすることである。神経を麻痺させることで痛みを取り除くことである。リスクを排除することで不安を取り除くことである。人間関係を非人格化することで失望を取り除くことである。それからさらに、そのような退屈さを、休暇や娯楽という方法で、喜びを手に入れ軽くしようとする。詩編126編には、そのようなものは微塵もない。
さあ神よ、再び行ってください ――
干ばつに苦しむわたしたちに
雨を降らしてください。
絶望の中で作物を植えた人々は
収穫の時には歓声を上げるだろう。
重い腰を上げて出かけた人々も
祝福を腕に携えて
笑いながら帰ってくるだろう
― 詩編126編4~6節