キリスト教信仰とは神経症的な依存ではなく、子どものような信頼感である。わたしたちの信じる神とは自分たちを尽きることなく気まぐれに甘やかす神ではなく、運命までも託す神である。クリスチャンとは慰められ、守られ、世話をさせられる以外には、そのアイデンティティーが持てない純真で無垢な幼児ではない。クリスチャンとは神への自発的な信頼を通して、最もよく楽しむことが出来る、神から与えられたアイデンティティーを見出す者である。わたしたちは恐れや不安から、必死に神にしがみつくのではない。わたしたちは、信仰と愛をもって、自由に、神の御許に赴くのである。
わたしは目を上げてあなたを仰ぎ見る。
天に座したもう神を
助けを求めて見上げる
主人の命令に機敏な僕のように
女主人にお世話するはしためのように。
わたしたちは目を注ぎ、待っている。
かたずを飲みながら
神の恵みの御言葉を待つ。
― 詩編123編1~2節