預言者ムハンマドの生誕祭 サイード佐藤裕一 【宗教リテラシー向上委員会】

キリスト教にはクリスマスという降誕祭がある。仏教にも灌仏会というブッダの生誕祭がある。だが、それらの日の特定や捉え方については、それらの宗教の各宗派において諸説あるらしい。

イスラームの預言者ムハンマドの生誕日の特定についても同様、諸説ある。さらにはそれを特別にお祝いすべきかどうかということについても、意見が分かれる。預言者ムハンマドの生誕日の特定に関して言えば、最も有名なのは、それがイスラーム暦の3月12日だった、とする説。事実、ムスリムが多数派を占める国では、この日を預言者生誕祭の祝日としていることも珍しくない。

この季節が近づくと毎年、ムスリム間で同じ議論が繰り返される。つまり、預言者ムハンマドの生誕日を祝うべきか否かという議論である。この話題は説教、講義、学習会、SNS上などでも取り上げられ、時には議論がヒートアップし、お互いの「信仰における正統性」の否定にまで至ることもある。

生誕日のお祝い反対派の根拠は、そのような慣行が「清廉なる先代」(預言者ムハンマドの時代を含む3世代)において行われてはいなかった後世の産物「ビドゥア」であり、それゆえに禁じられた行為だ、ということ。実際のところ、この慣行はエジプトを中心に栄えたファーティマ朝(10世紀初頭~12世紀末)に初めて出現したと言われる。「ビドゥア」とは簡単に言えば宗教改変のことであり、より詳しく言えば、「イスラームの教えにおいて、その根拠を示すようないかなる由来もないようなことを、新たに創出すること」である。預言者ムハンマドの伝承として、「我々のこの(宗教的な)物事において、(そもそも)そこにはなかったことを新たに始める者は、拒否される」という言葉がある。

生誕日のお祝い支持者らも、その慣行を「ビドゥア」と見なしていないわけではない。この件についてよく取り上げられるのは、シャーフィイー法学派の祖であり、預言者時代から数えて第4世代に属するアッ=シャーフィイーの次の言葉である。「ビドゥアには2種類ある:称賛されるビドゥアと、非難されるビドゥアである。スンナ(預言者ムハンマドの言行)と一致するものが前者、反するものが後者である」。つまり預言者の生誕日を祝うことには預言者への愛の表現というイスラームの教義上の根拠、またはその他の間接的根拠があるのであり、禁じられた「ビドゥア」ではない、という解釈である。また、それには長い伝統があり、さまざまな世代に属する幾多の大学者らもそれを容認してきたという歴史も、その強い裏付けであるとする。なお、全体的に見れば、預言者生誕祭の合法性を容認する派の方が、おそらく圧倒的多数派である。

ただし容認派に関しても、その祝い方は多様である。一般的に妥当なやり方とされているのは、預言者ムハンマドを節度ある形で称える宗教歌や詩を披露する特別な機会や、その人生について学びを深める講義や学習会を設ける日とすることである。

恐らく他の宗教においてもその信仰実践の形において、内部で同様のさまざまな議論があるのだろう。一信徒として思うのは、信徒間の憎悪や敵対心を煽るような要因は、その宗教の根本を覆すようなレベルのものでない限り、できるだけ回避しておくというのがより英知にかなったことではないか、ということである。

さいーど・さとう・ゆういち 福島県生まれ。イスラーム改宗後、フランス、モーリタニア、サウジアラビアなどでアラビア語・イスラーム留学。サウジアラビア・イマーム大卒。複数のモスクでイマームや信徒の教化活動を行う一方、大学機関などでアラビア語講師も務める。サウジアラビア王国ファハド国王マディーナ・クルアーン印刷局クルアーン邦訳担当。一般社団法人ムスリム世界連盟日本支部文化アドバイザー。

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