祈り)天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
どのような思いの中で眠りについたとしても、新しい目覚めが与えられます。
たとえ目覚めたくない現実の中で目覚めたとしても、私たち一人ひとりは決して一人ではありません。
人の言葉に傷つけられたとしても、実際に体を傷つけられるかもしれない恐怖の中にいたとしても、
神様、あなたが私たち一人ひとりと共にいて下さいます。
「どうして姿を現して下さらないの。」「せめてお声だけでも」と思う時もあります。
でも見えないから変わらないのです。耳に聞こえないから真実なのです。
いつも共にいて下さるあなたに感謝できますように。
これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。
アーメン
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。(ローマ8:30)
執り成して下さる「霊」とは何のことでしょうか?それは神様です。「霊」と言われるとどうも頼りなく、本当に信じてよいのか疑いたくなる方も少なくないかもしれません。
では、このように言い換えるとどうでしょう「『霊』とは神様からあなたに贈られている『思い』ですよ」「あなたをいつも神様は大切に守って下さいますよ」と。同じ目に見えないものでも「霊」と「思い」や、「霊」と「守り」では違う感じがします。一方は無機質で、一方には温もりがあるような、血が通っているような。神様は「君がそんな目に遭っていたなんて知らなかったよ」と無責任なことは言われません。なぜなら一人ひとりを造られ、一人ひとりを思われているからです。
私たちは時々「お守り」を持ちます。神社やお寺で売っているものばかりではなく、亡くなったり、または何らかの理由で側にいない誰かとの思い出の品だったり、よく言われていた「言葉」だったり。しかし、それらは自分や他の方にとって意味があったとしても、関係のない人にとっては紙くずであったり、意味のない言葉だったりします。
でも、神様からの「思い」や「守り」は違います。聖書に書かれている「霊」の働きと言い換えられます。これは全世界の一人ひとりにとって意味があります。なぜならば全世界の一人ひとりが神様に造られたからです。そしてもっとうれしいことにはたとえ誰かに忘れられていたとしても否定されていたとしても、その誰かにも、あなたにも神様からの思いは溢れているのです。
だから、私たち一人ひとりの思いも存在もすべてを、神様の思いがいつも執り成して下さいます。