キルケゴールの『死に至る病』:「自己」の問題圏へ
「絶望」のただ中にあったアウグスティヌスは自分自身を救ってくれるはずの「狭い道」の存在を発見しながらも、その道を進んでゆく気にはなれずにいました。
「わたしはもはや、それよりも確実な認識を得ようとはせず、ただあなたのうちにもっとしっかりした認識を得ることを望むのみであった。しかしわたしのこの世の生活については、すべてが不確実であって、心を『古いパン種』からきよめねばならなかった。わたしは、救いにいたる道を示される救い主そのものを喜んだが、まだその狭い道を行く気にはなれなかった……。」
この「狭い道」とは一体、どのような道のりのことを言うのだろうか。今回の記事からは、1849年に出版されたキルケゴールの『死に至る病』の言葉に耳を傾けつつ、「自己」の問題について掘り下げるための手がかりを探ってみることにします。
「『自己自身』になろうとすること」:キルケゴールが提示した課題とは
キルケゴールは『死に至る病』の序文において、次のように言っています。
『死に至る病』序文:
「学問性の高尚な英雄精神なんてものは、キリスト教から見れば、本当の英雄精神からはほど遠く、不人情な好奇心のように思える。キリスト教的な英雄精神ー本当にこれは、ごくごく稀にしか見られないものなのだろうーとは、一切を賭けて自己自身になろうとすることであり、一切を賭けて単独の人間に、この単独の人間になろうとすることである。神に直面する一人きりの人間になろうとすることであり、その途方もない尽力のただ中で、そしてその巨大な責任をわが身に引き受けて、ただ一人きりの人間になろうとすることである……。」
ここで彼は、人間存在に求められている最も重要な務めとは、「自己自身」になろうと努め続けることに他ならないという人生観を提示しています。事態を、二点に分けて整理してみます。
① 思索者としてのキルケゴールには、自分自身の「実存」から離れたところで成立する学問なるものには、価値を認めることができませんでした。すなわち、彼にとっての哲学というのは、根本的にはどこまでも「他の誰でもない、わたし自身が生きることの意味」を探る営みに他ならないのであって、探求する人間自身がそのために生き、そして死ぬことができるようなイデーに向かって進んでゆくのでなければ、結局は空疎なものになってしまうのではないか。キルケゴールが提示したこの考え方は、「ソクラテスの問いかけをもう一度真剣に受け取り直す」という彼の独特な倫理観に支えられたものであったと言うこともできそうですが、彼の時代には孤独なものであったこの見方は20世紀に至って、「実存」の概念として大いに取り上げ直されることになります(一般に、私たちが何気なく参照することのできる様々な概念はことごとく、先人たちのそれぞれが生涯をかけて守り抜いたものであると言うことができる)。
② そして、この箇所で彼が主張しているように、「実存」の課題とは突き詰めてゆくと「『自己自身』になること」の問題に帰着するというのが、『死に至る病』で提示された人間観に他なりませんでした。世間的に見て大きなことを成し遂げたりするのではなく、むしろ神に直面する一人の人間であろうと努めること、他の人々から見て目立つかどうかには関わりなく、真に「わたし自身である」と言えるような生き方に到達すること。この内的な課題を、いかなる外的な務めにもまして巨大な課題として捉えるところに、『死に至る病』という書物の特異性も存していると言うことができるのかもしれません(cf.現行の『存在と時間』の後半部は、キルケゴールのこの書が問題にしている事柄を、いわば世俗化して叙述したものであると見ることも可能であろう)。
「真の幸福とは、『狭い道』を歩み続けることのうちにこそあるのだとしたら?」:『死に至る病』の問題提起
論点:
「『自己自身』になる」という課題に向き合うことが、人間が自らの「絶望」から解き放たれるための唯一の道であるとしたらどうだろうか。
キルケゴールの発想の特異なところは、「自己」なるものに到達するという出来事を、あらゆる外的な要素から徹底的に切り離して考えようと試みた点にあると言えるのではないか。
一見すると、私たちの時代は「自己」なるものの追求に至るところで溢れかえっているのであって、その点では、「自己」について語ることは何ら変わったことではないようにも思えます。しかしながら、世の中で語られているところのいわゆる「自己実現」なるものは、社会的な成功や経済的な成功に、あるいは容姿やルックスをもファクターとして含みこんだ数の論理に避けがたく支配されているのであって、その点では、「自己」の問題圏を外的なものによって決定的な仕方で変質させてしまっていると見ることもできるのではないか。反対に、思索者としてのキルケゴールは『死に至る病』の読者に対して、「周囲の誰からも気づかれないとしても決して無視してはならない、『ただ一人の単独な人間として自己自身であること』」という課題が存在するのではないか?」と問いかけています。数の論理から完全に解き放たれた「自己」なるものが、果たして本当に存在するのだろうか。
この点に関しては、これから様々な角度から詳細な検討を加えてゆく必要がありそうですが、ビジネスマンから動画投稿者、あるいはSNSを利用している一人一人のユーザーに至るまで、誰もが「自己実現」なる理想あるいは悪夢に何らかの仕方で巻き込まれてゆかざるをえない時代にあって、これらの問題に向き合うことは、2023年現在の哲学が向き合ってゆくべき小さからぬ務めであるようにも思えます。ともあれ、私たちが読み進めているアウグスティヌスの『告白』との関連において重要であるのは、「『自己』であることと幸福であることとは、どのように連関しているのか?」という問いであると見ることもできるのではないだろうか。
32歳当時のアウグスティヌスが進もうとしていた「狭い道」というのは、この世のあらゆる物事を振り捨てて、「真に『自己自身』であることの自由」へと向かってゆく道に他なりませんでした。この道は同時に、「神を愛し、隣人を自分自身のように愛することの自由」に向かって歩みを進めてゆくことをも意味していましたが、このように現実離れしているようにも見える選択肢が彼の中でリアルになっていたのは、まさしく彼が「絶望」という出口なしの状況に置かれていたからであると言えるのではないか。あらゆる外的な問題から解き放たれて内へと還帰し、「自己自身」に向き合いながら真の幸福を求め始めるという意志は、どこから生まれてくるのか。もしも、「『自己自身』になる」というこの課題が人間にとって何よりも重要な課題なのであるとしたら、この課題に向かって自分自身の実存を賭けるということは、自分自身が本当の意味において幸福である可能性に向かって賭けることを意味するのではないか。こうして見ると、「幸福」なる概念もまた「自己」と同じく、決して自明なものではないことがわかってきます。これらの点に関しては、これから『死に至る病』を読み進めることを通して掘り下げてみることにしたいと思います。
おわりに
先に見た箇所で、キルケゴールは「『自己自身』になる」という可能性を引き受けることに関して「巨大な責任」という言葉を用いていました。誰もが通り過ぎてしまいがちな「魂への気づかい」の次元を最大限度に強調し続けたという意味では、この思索者の内にはやはりソクラテス的なものが原動力として息づいていたと見ることもできそうです。私たちとしては引き続き『死に至る病』の言葉に耳を傾けつつ、「『自己自身』になること」をめぐる問題を追ってみることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]