「哲学の元初」:私たちは、なぜ哲学することへと向かっているのか?
ハイデガーの思索を手がかりにして「存在の意味への問い」を問うている私たちの探求は、哲学の起源という問題圏のうちに入りこんでいます。
「存在への問いは、今日では忘却されている。私たちの時代が、『形而上学』をふたたび肯定することを進歩とみなしているにもかかわらず、忘却されているのである。[…]その問いによってー現実の探究の主題的な問いとしては、問いはもちろんそれ以後はまた沈黙することになるにせよープラトンとアリストテレスの探究は息づまるほどのものとなった。[…]それなのに、かつては思考の最高度の努力によって現象から戦いとられたものがーそれが断片的で、最初の手がかりにすぎないものであったとしてもーすでに長らく瑣末なものとなってしまっているのだ……。」
今回の記事では、これから哲学の起源について考えてゆくにあたって鍵となる語を導入することにしたいと思います。その語とは、「元初」なる語にほかなりませんが、ハイデガーの言葉に耳を傾けつつ、この語の持つ広がりについて考えてみることにします。
「元初」を問うとは、学問そのものの起源を問うことにほかならない
以前に一度参照したことのある『形而上学入門』の箇所の周辺を、再び見てみることにしましょう。「存在論的差異」の概念に触れつつ、ハイデガーは次のように言っています。
ハイデガーの言葉:
「だから真の根源的な差別、それの内的密着とそれの根源的相互分離とが歴史を支えているようなそんな差別、それは存在と存在者との区別である。だがこの区別はいかにして生起するのか?どこで哲学はこの区別を考え始めることができるのか?なるほどそう問いたくもなるだろう。しかしわれわれはここでこの出発について話をしてはならないのであって、われわれはその出発をそれぞれ自分でもう一度成し遂げなければならないのである。というのは、この出発は元初の必然性のゆえに既に成し遂げられてあるのであり、われわれはこの元初の影響下に立っているのであるから……。」
これからこの「哲学の元初」なるものについて考えてゆく上で、まず注意しておきたいのは、この元初は哲学の営みの元初であるだけでなく、学問そのものの元初でもあるという事実にほかなりません。
古代ギリシア人たちが経験した「ある」の衝撃は、プラトンやアリストテレスに至って「形而上学」なる学的探求の伝統を開始させることになりました。この「形而上学」なるものが生まれてくる瞬間は、これから彼ら自身が残した言葉に耳を傾けつつ、しっかりと跡づけることにしたいと思いますが、2023年の現在において哲学することへと向かっている私たちにとってもおそらく、この始まりの瞬間は途轍もなく大きな重要性を持っていると言えるのではないか。なぜなら、私たちがそれとして意識するかしないかには関わらず、この「元初」においてこそ、「哲学する」という未曾有の実存のあり方そのものが歴史上初めて生まれ出てきたのであって、私たちが今のこの瞬間において哲学することへと向かっているという事実の由来も、その根源をたどるならば、究極的にはこの「元初」の出来事にまで行き着くことになるものと思われるからです。
ところが、事態はそれだけにはとどまりません。現在、私たちの世界には狭い意味での「哲学」の営みだけではなく、人文科学と自然科学とを問わず、限りなく広大な諸学問が存在していますが、私たちがいま触れることのできるこれらの諸学問の起源もまた古代ギリシアにまで遡ることを考えるならば、私たちが探求のうちで突き当たりつつある「元初」とは、学問そのものの「元初」でもあるのではないか。もしそうであるならば、「哲学の元初」を問うことは、今ある私たちのこの世界がなぜこのようであるのか、その由来と必然性とを問うことでもあるということになるのではないだろうか。
「私たちの哲学的実存には、『元初』を反復する必然性があるのではないか?」
問題提起:
「私たちは生まれてくるべきではなかったのではないか?」と自問している現代という時代は、ハイデガーが主張していたように、「存在」から見捨てられている時代であるのだろうか?
少し大きな問いかけになってしまいますが、「元初」をめぐる問題圏の広がりを探るためにも、考えてみます。私たちの世界は、人類の全体を何度となく滅ぼすことのできる爆弾を所有し、後戻りすることのできないような仕方で大地を破壊しつつあり、人工知能が人間の知的能力を超え出る特異点がやって来るのではないかと自問しています。政治の営みは人間存在を種々のデータの束として扱う「生政治」へと不可避の変貌を遂げつつあり、また、人間は自分自身の生をますます水槽の中の脳が見る夢のような幻影として捉えるようになってきている、等々。おそらく、こういった個々の事柄の全てを超えて重要であるのは、私たちが生きているこの現代という時代においては、科学や技術の目まぐるしい発展のただ中において、人間の人間性が絶えず危機的な仕方で問われ続けているということなのではないか。少なくとも、「私たちは生まれてくるべきではなかったのではないか?」という反出生主義的な問いかけが、哲学の問うべき問いとして陰に陽に浮かび上がってきていることは、こうした時代の動向とどこか深いところで連関していることは確かなのであって、私たちの時代の哲学が、この連関の冥がりに光を当てることを務めの一つとして持つことは、恐らくは否定できないのではないかと思われます。
現代の運命を「存在から見捨てられていること」として思索したハイデガーの試みがどの程度まで根拠のあるものであったかということは、容易には決定しがたい問題です。しかし、いずれにせよ確かであるのは、哲学の営みが、もしも人間の人間性を、人間存在が人間存在であることの根拠を問おうと意志するならば、哲学はおのれ自身に対して「哲学の元初」の問題を提起しないわけにはゆかないということなのではないか。
私たちの生きている世界は、なぜこのようであるのか。その答えを知ろうと思うならば、哲学の営みは、私たち自身に「知ること」の実りをもたらしつつ、私たち自身の存在を危機的な仕方で疑問に付してもいるこの「学問」(自然科学も、この「学問」の重要な部分をなしています)なるものの本質について、その根底に至るまで考え抜くことを求められるのではないだろうか。「元初」において、「ある」の衝撃が決定的な仕方で生起するのと共に、哲学の営みが始まった。この「元初」は私たちの後方に位置するのではなく、おそらくは私たちの行く手において、私たち自身の到来を待っているのではあるまいか。哲学の言葉は、「『ある』の根源的な意味が明かされない限り、生きることの根源的な意味もまた明かされることはない」と告げている。その意味では、「哲学の元初」を問うことは、私たちが自らの命そのもののあり方を問うことと、どこかで繋がってゆかずにはおかないものと思われるのである。事によると、哲学することへと向かっている私たちの実存は、「元初」を再び問い、反復することを通してこそ、自らが向かってゆくべき方向を見出だすことになるのではないだろうか。向き合うべき事柄が大きなものであるだけに、私たちとしては前もって性急な判断を下すことは差し控えつつ、一歩一歩じっくりと進んでゆくほかなさそうです。
おわりに
「元初はなおも存在している」というのが、後年のハイデガーが提起した根本命題の一つにほかなりませんでしたが、この命題は彼個人のものであることを超えて、哲学の営みそのものが向き合うべき課題を指し示すものであると言えるのではないだろうか。「元初」という言葉はこれから長い時間をかけて付き合ってゆくことになりそうなので、私たちはこの語が指し示している事柄が、『告白』におけるアウグスティヌスの探求とも深いところで連関することを念頭に置きつつ、もう少しこの語のもとに踏みとどまって考えてみることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]