「ミラノの見神」体験は哲学の現在にとって、何を意味するか
『告白』の叙述によるならば、31歳のアウグスティヌスが体験することになった「ミラノの見神」とは、彼が肉眼を通して見ることのできる可視的な光とは異なる、「不変の光」によって照らされる経験にほかなりませんでした。
「わたしは進んでいったとき、わたしの魂の目でそれはなおかすんでいたが、まさしくこの魂の目の上に、わたしの精神の上に、不変の光を見た。それは、どんな肉眼にも見えるような普通の光ではなく、また普通の光と同じ類のものではあるが、それよりは大きく、はるかに強く輝いて、その大きな光力によって万物を照らすというような光でもなかった。わたしが見た光はそういう光ではなく、このような総てとはまったく異なったものであった……。」
2023年の現在時における哲学は、この箇所から何を受け取ることができるのでしょうか。今回の記事ではこの点について掘り下げるために、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで活躍した哲学者である、ゴットフリート・ライプニッツの言葉を参照しながら考えてみることにします。
「モナドには窓がない」から、反出生主義へ:現代という時代の運命をめぐって考える
ライプニッツは、結果的には主著の一つとなった短い論考『モナドロジー』の冒頭部分において、次のような言葉を残しています。
『モナドロジー』におけるライプニッツのテーゼ「モナドには窓がない」:
「さらにまた、モナドがどのようにして、その内部をなにか他の被造物によって変質されうるのか、あるいは変化されうるのかも説明の手立てはない。モナドのなかには何も移し入れることはできないし、モナドのなかで内的な運動が引き起こされたり導かれたり増えたり減ったりできるとは、考えられないからだ。[…]モナドには、何かものが入ったり出たりできるような窓がない。」
ここで語られている、「モナドには窓がない」というテーゼを通して指し示されている事柄はおそらく、ライプニッツという一個人の枠をはるかに超えて、近代なる時代の運命に深く根差しつつ示されたものであると言えるのではないか。そして、このテーゼはおそらく、科学革命が開始された近代の人間のみならず、私たちが生きているこの現代における人間の運命のあり方をも映し出すものなのではないだろうか。
「モナド」という言葉は、今ここで問題にしている文脈においてはさしあたり「心」と同一視しておいてよいでしょう。人間の心、たとえば、無数の人間のうちの一人であるわたしの心は、単独者であるところのわたし自身によってしか決して知られることのない表象や思考、想念といったもので満たされています。そして、これらの思考やイメージ、あるいは、やって来ては通り過ぎてゆく数々の「クオリア」といったものは、他の人には直接に伝達することはできませんし、わたしが他の人々の感じているはずの「クオリア」を直接に感じることもできません。その意味では、ライプニッツの言う通り、まさしく「モナドには窓がない」のであって、それぞれの個人の心は、ある意味では他者に対して直接には開かれることなく、その生の始まりから終わりに至るまで、あたかも映画のスクリーンのように、外部を持つことなくそれ自身において完結していると見ることもできそうです。
「殺人者というものは決まって凝った文体を用いるものである。」私たちの時代の思想や作品は、「〈他者〉のいない人間」という形象に避けようもなく取り憑かれています。近代、あるいは近代的なもののリミットとしての現代とは、実存の側面から見るならば、この「モナドには窓がない」に原理的には全ての人が向き合わされるようになってゆく過程に他ならないのではないか。そして、この「窓がない」を〈他者〉に対する心の閉鎖としてのみ捉える限り、現代という時代は究極のところでは反出生主義的思考に、すなわち、一つの仮借なき見えざる絶望としての「私たちは生まれてくるべきではなかった」に、遅かれ早かれ行き着くほかないのではないだろうか。このような物の見方に立って考えてみる時、『告白』におけるアウグスティヌスの「ミラノの見神」をめぐる叙述から、私たちは何を読み取ることができるのでしょうか。
「存在の超絶」:現代の「彼方」を望み見ることに向かって
論点:
心、あるいは意識とは、実存する一人の人間であるところのわたしが顕現する〈他者〉を迎え入れるという、法外な出来事が生起する場所に他ならないのではないか?
すでに見たように、「ミラノの見神」はアウグスティヌスにとって、絶対他者である神のリアリティに触れる経験に他ならなかったのであり、その経験は、目に見える光とは異なる「不変の光」の体験として生きられたのでした。この出来事はいわば、彼自身のそれまでの人生観や価値観を根底から覆すような仕方で彼に襲いかかったのであって、「〈他者〉が存在する!」という驚きは、この後に彼が「心」の哲学者として探求を進めてゆくようになる上でも、まさしく決定的というほかない役割を果たしたものと思われます。
〈他者〉なるものの存在規定について、ここで改めて考えてみます。他者は、他者である限りは実存する一人の人間であるわたしの意識を超え出るという仕方で存在しているはずなのであって、その本質からしてわたしの心をあふれ出てゆきます。わたしの隣人たちは、紛うかたなき「存在の超絶」として、わたしにとっての「彼方」から、彼あるいは彼女の言葉を語りかけてきます。心あるいは意識とは、そうした法外な顕現の出来事が「隠れたる驚異」として生起する場所に他ならないのではないか。〈他者〉なる存在がわたしにとっての外部性として、決して直接には知られえないということは何かの欠陥や不完全さによるのではなく、むしろ、わたしが超絶する〈他者〉の存在に敬意を払いつつ、彼あるいは彼女を歓待することの条件をなしているのではないか。単独者であることは、〈他者〉の不在を意味するのではいささかもなく、かえって、「『あなた』はわたしには知りえない」と認識することができる場合にのみ、わたしが他者であるところの「あなた」について何事かを知るという可能性も開かれるのではないだろうか(cf.キルケゴールは、単独者の規定を外部なき独在性にとどめるためにではなく、全き外部性のような何物かが生起するための条件として打ち立てたのであって、そこにこそ、彼が同時代の哲学に徹底的に抗うような仕方で遂行し続けた思索の戦いの眼目も存していたのであった)。
心あるいは意識を閉塞したものとして捉え、「モナドには窓がない」というテーゼを外部性の不可能性としてのみ生きるならば、そこに待っているのはある種の「究極の孤独」のみなのではあるまいか。私たちはここで、次のような問いを問うこともできるかもしれません。すなわち、現代の人間にとって、心とは主観性の悪夢、あるいは独在性の地獄として、仮借なき「わたしは生まれてくるべきではなかった」として生きられるほかないものなのか。従って、「わたしが存在する」は「思考し、表象するわたししか存在しない」を、「わたしはその存在の根底において呪われている」を意味することになるのか。それとも、実存する一人の人間であるわたしは、わたし自身の心のリミットにおいて、究極の孤独とすれすれの痛みに突き動かされるようにして「存在の超絶」に、生きることの意味そのものの啓示としての「〈他者〉であるところの『あなた』が存在する」に出会うことになるのだろうか。思索には、痛むことを愛することの可能性の条件として考え抜くという務めが与えられているのではないか。ここには、ライプニッツの思索や反出生主義といった一つ一つの事柄を超えて、何か人間性の運命そのもののようなものが問いかけられているようにも思えます。アウグスティヌスの『告白』を読む私たちはこの本を読み進めてゆく中で、現代の「彼方」をも望み見るような哲学の可能性に向き合わされることになると言えるのかもしれません。
おわりに
「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」と信仰の書は語っていますが、哲学の営みが目指すところとは、その極限においてはこの「顔と顔とを合わせて」を可能な限り思索し抜くことに他ならないのではないだろうか。少なくとも、「ミラノの見神」をめぐる『告白』の叙述は単に一人の古代人の体験を書き記しただけのものにとどまることなく、現代の人間が「『生きることの意味とは何か?』」という問いを問うてゆく上での貴重な手がかりを与えてくれるものであることは確かなのではないかと思われます。私たちとしては引き続き、この経験のもとに踏みとどまって考えてみることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]