『告白』の構造について考える
自分が抱いている数々の疑問点に対して司教ファウストゥスが答えられなかったことで、青年アウグスティヌスのマニ教に対する熱は、次第に冷めてゆくことになります。
「わたしを苦しめていた多くの問題について、あの有名なファウストゥスでさえ、答えられないことが明らかになってから、この派に属する教師たちに学ぶ希望を失って、わたしはファウストゥスとともに、かれの興味にしたがって文学の領域で、ともに時を過ごすようになった。[…]しかし、それはとにかく、わたしがマニ教に精進しようとした熱意は、かのファウストゥスを知るにおよんでまったく消え失せた……。」
この出来事のもたらした影響は、その後のアウグスティヌスの生き方にも及んだと言えそうです。今回の記事ではこの点について掘り下げながら、『告白』という本の構造について考えてみることにします。
ファウストゥスとのやり取りを通して、アウグスティヌスが学んだこと
まずは、これまでの展開を改めて確認しておくことにします。世間からは「知恵のある人」と思われていたマニ教の司教ファウストゥスは、生きることの真実を追い求める人ではありませんでした。
有名人だったファウストゥスは話しぶりも立派だったし、非常に感じのよい人でもありました。しかし、彼はアウグスティヌスが求めていたような、「『真実』を、それ自体のために求め続ける人」ではありませんでした。周囲の人々が、彼のことを何でも知っていてすごい人だと思ったのは、ひょっとしたらただ単に、「みんな」が彼のことをすごいと言ってほめそやしているからで、彼ら自身は真実をそれほど真剣に追い求めていたわけではなかったからなのかもしれません。当時29歳のアウグスティヌスはこうして、世間の評判なるものの本質の一端をかいま見たのでした。
① これに対して、その後のアウグスティヌスは「『真実』を、それ自体のために求め続ける人」としての道のりを次第に歩み始めることになります。この道のりはある時には険しく、また、ある時には曲がりくねっていますし、当のアウグスティヌス自身も世のさまざまな誘惑に屈しそうになったり、実際に屈してしまったりすることでしょう。それでも、31歳の時に経験した「取って読め」の出来事をくぐり抜けた後のアウグスティヌスは、この困難な道のりを、自分自身に許される限り歩み続けました。40代の前半に書かれた『告白』は、その長い道のりの途上で書かれたものであると言うことができるでしょう。
「ここには、真実が語られている」と共に信じること
② それでは、このような道のりを歩む人は、自分自身の友や隣人たちとどのような関係を築いてゆくことになるのでしょうか。この点に関して参考になる言葉が、『告白』第10巻の第3章において語られています。
アウグスティヌスの言葉:
「しかし『愛はすべてのことを信ずる』のであるから、そしてこのことは愛によって結ばれて一体となった人たちのあいだではとくに真実であるから、わたしは、主よ、あなたに向かって、人びとが聞くことができるように告白しようと思う。もっともわたしはわたしの告白が真実であるかいなか、その証拠をかれらに示すことはできないが、しかし愛によってその耳をわたしに向けて聞く人びとは、わたしの告白を信ずるのである。」
「人間が真実を語る」ということに際しては言うまでもなく、限界や制約もあることでしょう。自分自身の人生の歩みについて語るということになれば、自己欺瞞の危険は常に存在します。それでも、自分自身になしうる限り真実を語ろうと努力し続け、それを読む人々が、語っているアウグスティヌスの言葉を信じるならば、『告白』が書かれることにも意味はあるだろうと、ここで彼は言っていることになります。
「信じる」というのが、ここでの外すことのできないキーワードになります。つまり、人々はアウグスティヌスの告白が真実であるかどうかを客観的に判定することはできないけれども、彼らが「ここで語っている人、すなわちアウグスティヌスは、自分の信じている愛の神に向かって真実を語ろうと努め続けている」と共に信じることによって、『告白』という本は初めてその本来の役割を果たすことになるわけです。
人間の語る言葉にその本来の姿を取り戻させるというモチーフが、この本の語りを特異な語りとして成り立たせています。言葉の本来の役割とはまさしく、「真実を、そのあるがままに語ること」に他なりません。信じることが、聞くという行為をその本来的なあり方へと呼び覚まし、愛が、言葉を発する人間と受け取る人間とを一つに結び合わせるならば、その時には「人と人の間で真実が語られる」という、稀にして困難な出来事が生起することになるでしょう。『告白』という本はこの意味からすると、人と人との言葉を介したつながりを、根源的な仕方で形作ることへと差し向けられていると言うこともできそうです。
おわりに
「わたしは真実を語り、偽りは言わない。」まずもって注目するべきは、こうした試みが実際に実現されたかどうかということよりも、そうしたことを試みた人、そして、その試みを真剣に受け止めようとした人々が存在したということなのではないでしょうか。『告白』という本の構造は、言葉が人と人の間につながりを生んでゆくという事実に対して、改めて目を向けさせてくれるものであると言うこともできそうです。私たちとしては引き続き、青年アウグスティヌスの人生の道のりをたどってみることにしたいと思います。
[読んでくださって、ありがとうございました。『告白』読解も、気づけば来週から六ヶ月目に入ります。ここのところ心身ともに若干低空飛行気味ですが、命に別条はないので、ゆっくり進んでゆきたいと思います。地味な連載ではありますが、読解に付き合ってくださる方がいることには、本当に励まされています。読んでくださっている方の一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]