今日11月14日は石原吉郎の召天日。
東京外国語学校(現・東京外国語大学)ドイツ語部卒業後、ドストエフスキーを耽読。また、カール・バルトの『ロマ書』を読んでキリスト教に関心をいだき、いちはやく日本にバルト神学を紹介した弟子のエゴン・ヘッセルから大阪姫松教会(現在、日本キリスト教会)で洗礼を受けます。
翌年、神学校に進む決心をして上京し、ヘッセルの勧めによってバルト神学者、福田正俊の牧会する信濃町教会(現在、日本基督教団)に41年、転籍しましたが、応召。45年、敗戦とともにソ連軍に留置され、49年、強制収容所に収容されました。53年、スターリン死去にともなう恩赦によって帰国します。その後、本格的な詩作を開始しました。
石原は、たとえば次の聖句「第七の封印を解き給ひたれば、凡(おおよ)そ半時のあひだ天静(しづか)なりき」(黙示録8:1、文語訳)を読んで、その詩としての美しさに打たれるといいます。
私は聖書を読むとき、無意識のうちに詩的な発想をさがし求めていることが多い。だから、求道的な読者なら素通りしそうな箇所で長すぎるほど立ちどまったりする。聖句として感動するまえに、詩として感動してしまうのである。わけても黙示録のこの一句は、信仰という枠をこえて、望洋たる感動を私にしいる。
私は口語訳の聖書をほとんど読まない。聖書の最初の印象を私に決定したのは、文語訳の格調の高さであり、いまもなおその印象がうしなわれることをおそれるためでもあるが、何よりも大きな理由は、文語訳にはあきらかに詩があるということである。これにくらべると口語訳の聖書には、かわいそうなほど詩がない。(エッセイ「半刻のあいだの静けさ──わたしの聖句」『海を流れる河』)