新しく日本福音ルーテル教会の教職として任命される「教職受任按手(あんしゅ)式」が3日、日本福音ルーテル東京教会(東京新宿区)で行われた。「按手」とは、キリスト教の教職者を任命するとき、先輩の教職者が志願者の頭の上に手を当てて祈ること。
4月から牧師として遣わされる中島共生(なかじま・ともき)さん(30)に話を聞いた。
──按手を終えられた今の感想をお聞かせください。
ルーテル学院大学と神学校で6年間学んできて、「ようやくスタートラインに立ったな」ということです。
──振り返って、心に残っている出来事はありますか。
卒業の1年前、7カ月の宣教研修で、熊本県にある大江教会(熊本市)と宇土教会(宇土市)に行きました。その研修中に、壮年の信徒さんが入院され、何度かお見舞いに行くうちに親しく話すようになって、「これから一緒に教会生活が送れる」と思っていた矢先、退院した翌日に亡くなられたのです。葬儀のとき、私にも話す機会が与えられたのですが、泣いて話せる状態ではありませんでした。そういうこともあって、「自分は牧師には向いていない」と思ったのです。
──牧師になるのをやめようと思ったのですか。
牧師は、人が生まれた時から死ぬ時まで関われる仕事なのに、大切な死の時に何もできないのであれば、牧師の働きはできないと、その週のうちに東京に帰ろうと思いました。
「これが最後」と土曜の礼拝で司式と説教をやり遂げたとき、亡くなられた方が生前いつも座っていた席にご夫人がいて、私を見てくださっていたのです。そういえば、いつもその方は私に「いい牧師になる」と言葉をかけ続けてくれたと思い出し、「その言葉を嘘(うそ)にしてはいけない。もう一度がんばろう」と思い直しました。
自分が牧師になることも、教会で起こることも全部、自分から出たことではなく、神様の出来事なのだとはっきり自覚した瞬間でもありました。
──お父様も牧師(日本福音ルーテル市川教会の康文氏)をされていますが、牧師になろうと思ったのはお父様の影響ですか。
大学に入るまでは、牧師になろうとはまったく思っていませんでした。父も「牧師にだけはなるな」と言っていたので、高校卒業後は最初、キリスト教とは関係のない他の大学に入学しました。
──それまで教会に行っていなかったのですか。
中学に入ってからは部活(サッカー)ばかりやって、教会には全然行きませんでした。ただ、教会の春のティーンズ・キャンプにだけは毎年参加していました。高校を卒業しても、キャンプのスタッフだけは続けていたんです。
──神学校に入学したきっかけは何ですか。
在学中に居酒屋で店長をやっていて、「このままでもいいかな」と思っていましたが、卒業していく先輩たちを見ているうちにだんだん不安になり、そのアルバイトを辞めました。
半年近くぶらぶらと自堕落な生活を送り、そのうち友達とも一切連絡を取らなくなり、ほとんど引きこもりの生活になったのです。だんだん生きていることに何の意味もないように思えてきました。
ある日、コンビニに弁当を買いに行った時、店員に「温めますか」と聞かれ、声が出なかったんです。もうダメだと思い、どうやって死のうかと真剣に考えました。その直前に友人が自殺し、「人ってこんなに簡単に死ねるんだ。自分も死んだほうが楽だ」と思ったのです。
この時も「今日が最後の1日」と決めて出かけようとしたら、「話がある」と父からメールが来ました。そのまま家に行って父と向き合った時に、「牧師にならないか」と言われたんです。驚くと同時に、私も素直に「どうしたら牧師になれますか」と聞いていました。
「神様はずっと待ち続けてくださっていたのだ」と思いました。空っぽの何もない中に信仰だけは残るという体験で、23歳の時のことでした。
──神学生としての生活の様子を教えてください。
同級生は私を入れて4人で、1人は女性でした。入学した時、私が最年少の20代で、ほかの人は30代、40代、50代と、ちょうど10歳くらいずつ離れていました。それぞれ歩んできた道も全然違い、同級生といっても少し趣(おもむき)が違うと思います。何もかも一緒に行動するのではなく、それぞれができる部分で互いに助け合う関係でした。そのような共働もあるのだと学びました。
キリスト教史や教義などの授業のほかに、2年の時に「臨床牧会訓練」という学びがあります。精神科と心療内科の病院に週に1回行き、寄り添うとは何なのか、傾聴と聞くことはどう違うのかを訓練し、学んでいきます。3年の時、先ほどの宣教研修があり、2年と3年で自分の課題や関心を見つけて、最後の卒業論文でそれをまとめることになります。
──中島さんのテーマは何でしょうか。
「死」です。卒論は「現代の死者の行方」というテーマで書きました。友人の自死や、自分が死を身近に感じた経験が影響しているかもしれません。(後編に続く)