天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。(工フェソの信徒への手紙1章4節)
今日の聖句は、私たちが救われて、神の前で聖なる者とされたのは神の選びであると語る。ここから救われる人は決まっているという予定説の教理が生まれ、それでは人間の側の信仰は不要なのかという議論が起こった。
聖書には、神の選びと人の信仰が両輪のように語られている。預言者ハバククは「神に従う人は信仰によって生きる」(ハバクク2・4)と言い、パウロはこれを受けて、「人が義とされるのは信仰による」(ローマ3・26)と語る。主イエスは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・5)と宣教し、一人ひとりに信仰を求め( ヨハネ11・26)、信仰の人を称賛した(マタイ15・28)。 他方、イスラエルが神の民とされたのは神の選びである(申命記7・6)。また、主イエスは弟子たちに「わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15・16)と言う。
私たちの救いは神の選びによるのか信仰によるのかという二者択一ではない。今日の聖句の「天地創造の前」の神の選びとは、救いが神の一方的な恵みに基づくことを語っている。救いは私たちを救う神の意志と、独り子を世に与えるという神の愛による。私たちが救われたのは、私たちの信仰に先立つ神の恵みであったと知る時、私たちは神に感謝し、心から神をほめたたえるのである。私たちが神に選ばれたのは、「神がその愛する御子(みこ)によって与えてくださった輝かしい恵みを、私たちがたたえるため」(6節) である。神に選ばれた群れである教会のなすべき第一の目的は、礼拝である。