しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。(ルカによる福音書23章21節)
主イエスを十字架につけたのは、だれか。ユダヤの宗教指導者たちは、主イエスが自分たちの体制を批判し、社会を覆す危険人物と見た。現状に満足している人には、罪を指摘して、生き方を問う主イエスは、いて欲しくない。
ローマ総督ピラトは、主イエスに罪がないと知ったが、人々の声を恐れて、死刑を宣告した。神を恐れて正義を行うのではなく、人を恐れて行動するなら、無責任に主イエスを十字架につけるピラトと同じである。
人生に快楽を求めるへロデは、永遠の世界を語る主イエスを好奇な目で眺め、邪魔になってくると抹殺した。人生に永遠の目的があることを認めない人は、主イエスに関心はない。しかし、主が悔い改めを迫ると、これを抹殺する。
群衆は主イエスにイスラエルの解放者を期待したが、期待を裏切られて失望し、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。社会に幸福をもたらすバラバのような革命家、ご利益を約束するカリスマに期待する者にとって、自分の期待や願望に応えない主イエスは必要ではない。
弟子たちは周囲の形勢が不利になると、主の弟子であることを恥じて、身を隠した。キリスト者であることを恥じて、信仰を言い表さない者は、主イエスを十字架につける加担者である。神の御子(みこ)を十字架につけたのは私であると知る時、私たちの罪を引き受けて十字架にかかり、神の赦(ゆる)しを執り成している主イエスの恵みが迫ってくる。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5・20) 。