神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。(コリントの信徒への手紙I 15章38節)
キリスト教信仰は、死者の復活の希望を語る。しかし、焼かれて消えて無くなる死者の体を見て、その復活を想像することは難しい。二千年前の人々も、「死者の復活などない」と言い、あるなら「死者はどんなふうに復活するのか」と反論した。これに対してパウロは、植物の種が土にまかれて形を失うと、新しい体となって現れる自然現象に注目させ、創造者なる神が私たちを新しい体にするのは容易であると語る。
私たちは死んで地上の体を脱ぐと、天国において復活の体を着る。しかし、それは自動的ではない。今日の聖句が語るように、私たちに復活の体を与えるかどうかは、神の「御心のままに」である。主イエスは「わたしの父の御心(みこころ)は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6・40)と言った。神は主イエスを信じる者に、復活の体の種(保証)を与えてくださる。
天国において復活の体が与えられるのは、神と人との交わりの祝福にあずかるためである。「一つ一つの種にそれぞれの体を与えられ」とあるように、天国においても、私たちは他者とは違う各々の体を持つ。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(Iヨハネ3・2)。私たちは今すでに神の子であるが、天国において「御子に似た者」、すなわち、神の子としての生き方が完成される。