あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(コリントの信徒への手紙I 10章31節)
古代ギリシャの神殿は屠殺場(とさつじょう)でもあった。神々に供えられたいけにえの肉は市場に出回った。これを食すると偶像礼拝の罪になると考える信徒たちに、パウロは今日の聖句で、信仰生活は飲食に神経質になることではなく、神の栄光を現すことであると語った。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14・17)。神は人間が神との正しい関係を持って、人間同士が平和に生きることを願っておられる。この神の願いを踏みにじり、人との関係を壊すことが罪である。何を飲食したら、何をしたら罪だというのではない。罪とは、夫婦、家族、共同体、そして世界の人と人との関係を壊すことである。自分の利益のために他者を切り捨てることである。パウロは信徒たちに、神の栄光を現すため、「自分の利益ではなく、他人の利益を求めよ」(24節)と勧める。
しかし、他者の利益よりも自分の利益を求め、人と人との関係を破壊しているのが私たちの現実である。戦争はその最たるものである。このように罪を犯している私たちに、神は和解の道を備えてくださった。すなわち、私たちの罪を引き受けた御子キリストの十字架の苦しみによって、神は私たちの罪を赦(ゆる)し、和解の手を差し伸べてくださったのである。まず神との和解を得ることが、傷つけあっている人間と人間、憎み合っている民族と民族との和解の道となる。私の犯した罪が神に赦され、神の平和が私を支配するとき、他者に謝罪する心が生まれ、また他者に傷つけられた心が癒(いや)されるからである。