知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。(コリントの信徒への手紙I 8章1節)
古代ギリシャでは、都市の諸行事は神殿において行われ、神々に家畜を屠(ほふ)って礼拝を捧げた後、その肉が市民の手に渡った。コリント教会の信徒の中には、神々に供えた肉を食することは罪を犯すことになると考えた。一方、「唯一の神以外にいかなる神もいない」という知識を持つ信徒は、偶像は存在しないのだから、神殿で屠られた肉を食べても問題はないと言った。パウロは後者の考えに同意した上で、今日の聖句を語った。
知識を持つ者は偶像や迷信から解放され、自由である。しかし、今までの習慣に捉われて、偶像に供えられた肉をただの肉と割り切ることができない信徒もいる。パウロはそういう弱い人たちのことも配慮する愛を求めた。知識は人を自由にするが、同時に人を高ぶらせ、交わりを壊す危険がある。
パウロは「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」と言う。今、私たちは神のことも信仰のことも一部しか知らない。しかし、私たちは神に知られている。神は私たちをキリストの愛のまなざしで見ておられる。私たちは自分の醜さに気づいて神に顔を向けられない時がある。しかし、私たちが神を押しのけない限り、神は私たちをどこまでも包んでくださる。十字架のキリストは私たちの罪によって傷つけられながら、どこまでも私たちを赦(ゆる)し包もうとする神の姿である。私たちは自分が神に知られ、どんなに愛されているかを知ることが大切である。私の存在が神に知られ、キリストの痛みによって赦され、受け入れられていることを知ることによって、私たちは他者を受け入れるのである。教会を造り上げるのは知識ではなく、愛である。