わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。(ローマの信徒への手紙12章5節)
私たちの信仰生活は、一人ひとりが神を信じて生きるのであるが、それとともに、主にあって互いに結ばれた信仰共同体の一員として生きるのである。私たちが共に神を礼拝し、共に神に仕える教会を、イエス・キリストはご自身の体とし、この地で働かれる。教会はキリストの体であり、私たちはその肢体である。手や足が体から切り離されたら、血液が流れないために死んでしまうように、もし私たちがキリストの体である教会から離れるならば、キリストの血が流れないために、次第にキリストの命を失ってしまうのである。
パウロは「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」(3節)と言って、私たちがキリストの体として互いに結ばれるための要件を示す。「信仰の度合いに応じて」とは、各自が人と比べるのでなく、ただ神との関係の中で、神の恵みに応えてゆくことである。神の恵みを知り、これに応える信仰は、成長の度合いによって一人ひとり違う。ゆえに、各自は神との関係の中で、神に仕えればよい。人と比べない。人と比べると、自分を卑下したり、傲慢(ごうまん)になったりする。
「慎み深く評価すべきです」とは、人間の努力によって習得すべき謙遜ではなく、自分の働きはさまざまな働きの一つに過ぎないという自己理解である。自分は「神の恵みによって」このように働いているという感謝の自己評価である。大事なのは、「神の恵みによって」生かされている一人ひとりがいるという事実である。この事実に教会共同体の命がある。