そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。(ローマの信徒への手紙5章3節)
「苦難をも誇る」とは、なんと不思議な言葉であろう。苦難は誇れるどころか、避けたいものである。人が宗教を求めるのは、無病息災を願うからであろう。しかし、この世に生きている限り、苦難に遭わずにすむ人はいない。だから、苦難に遭わないことを願うのではなく、苦難に勝つことが大切である。
「苦難をも誇る」と言えるのは、「信仰によって義とされ、主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」(1節)いるからである。「苦難をも誇る」とは、苦難に襲われても、神との間に平和を得ている信仰者の神讃美である。信仰者は神に信頼することによって、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は神の栄光にあずかる希望を生むことを知っている。それゆえ、苦難の中で、「ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ8・28)神を忍耐して待つ。その忍耐が生む練達とは、苦難に動じなくなることではない。幼な子のように神により頼むようになることである。こうして信仰者の生活は、終わりの日に神の栄光にあずかるという「希望」へと導かれる。
主イエスご自身、この希望のゆえに苦難の人生を歩み通された。その方が、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16・33)と言われる。勝利を信じて、世の苦難を受けとめられた主イエスを仰ぎ、私たちも神の栄光にあずかる日まで、苦難の多い人生を勇気を出して歩んで行こう。