3月11日「心は燃えても、肉体は弱い」

誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。(マタイによる福音書26章41節)

主イエスはゲッセマネの園で悲しみもだえ、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られた。「杯とは、主イエスが父から命じられた贖罪(しょくざい)の死である罪人の罪を引き受け、罪人に代わって裁かれ棄てられる死である。その死の恐ろしさを本当に知って、イエスはしまれた。ゲッセマネの祈りは、父の御心に従い十字架の死を引き受ける主の苦しみを伝えている

目を覚ましていることができず、眠ってしまった弟子たちに、主イエスは今日の聖句を語った人の子イエスは弟子たちの弱さをご存知である。その弟子たちに、誘惑に陥りやすい弱さを克服できるのは祈りであると、語ったのである主もまた、「肉において生きておられたとき、激しい叫びをあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、聞き入れられた」のである(へブライ5・7)。

私たちは苦しみに弱い人間であることを痛感するその弱さを自覚して、神に祈るならば、神は私たちのために時宜に適った助けを与えてくださる御父に祈って、御心に従う力を与えられた主イエスは、弟子たちのところに戻り、「立て、行こう」(46節)とった。主イエスは弟子の弱さをご存知であるが、それでもなお、私と緒に来なさいとうのである。主イエスは弟子たちが主の死につまずいても、逃げ出しても、弟子たちを再び集め、立たせた。今日も、主イエスは弱い私たちに、「立て、さあ緒に行こうってくださる。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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