誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。(マタイによる福音書26章41節)
主イエスはゲッセマネの園で悲しみもだえ、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られた。「杯」とは、主イエスが父から命じられた贖罪(しょくざい)の死である。罪人の罪を引き受け、罪人に代わって裁かれ棄てられる死である。その死の恐ろしさを本当に知って、主イエスは苦しまれた。ゲッセマネの祈りは、父の御心に従い十字架の死を引き受ける主の苦しみを伝えている。
目を覚ましていることができず、眠ってしまった弟子たちに、主イエスは今日の聖句を語った。人の子イエスは弟子たちの弱さをご存知である。その弟子たちに、誘惑に陥りやすい弱さを克服できるのは祈りであると、語ったのである。主もまた、「肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、聞き入れられた」のである(へブライ5・7)。
私たちは苦しみに弱い人間であることを痛感する。その弱さを自覚して、神に祈るならば、神は私たちのために時宜に適った助けを与えてくださる。御父に祈って、御心に従う力を与えられた主イエスは、弟子たちのところに戻り、「立て、行こう」(46節)と言った。主イエスは弟子の弱さをご存知であるが、それでもなお、私と一緒に来なさいと言うのである。主イエスは弟子たちが主の死につまずいても、逃げ出しても、弟子たちを再び集め、立たせた。今日も、主イエスは弱い私たちに、「立て、さあ一緒に行こう」と言ってくださる。