もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおリになる。(マタイによる福音書17章20節)
主イエスが山から下りると、一人の父親が近寄って「主よ、息子を憐(あわ)れんでください」と願った。てんかんの発作で苦しむ息子を弟子たちの所に連れて来たが、治せなかったという。主は子どもをそばに呼び寄せ、悪霊を叱って追い出し、癒した。人が病気のために、不安や恐怖に襲われ、苛立ち、絶望するところに、悪霊の働きがある。近現代の科学至上主義は神も悪霊の存在も否定し、科学が発達すれば世界から病気、貧困、犯罪、戦争などの悪を追い出すことができると信じた。しかし、科学が進歩した今日もなお、これらの悪を追い出せず、むしろ、人間の手に負えない情況ではないだろうか。
主イエスは悪霊を叱って、追い出した。ここに、人間を恐怖に閉じ込めて滅ぼす悪霊に対する主の怒りと、悪霊に苦しめられている者に対する主の深い憐れみが示されている。それゆえ、病気のために不安や恐怖に襲われる時、この父親のように主イエスに近づき、「主よ、憐れんでください」と叫べばよい。主なる神は憐れみ深く、苦しみの中から叫ぶ者の祈りを聞いて助けてくださる。
弟子たちは、自分たちが悪霊を追い出せなかった理由を主イエスに尋ねた。その時、主は今日の聖句を語った。主イエスは弟子たちの信仰が大きいか小さいかを問題にされたのではない。まして、癒しが弟子たちの力量によると言われたのではない。主イエスは弟子たちに、全能の神は憐れみ深く、悪霊に苦しむ者の叫びを聞かれる方であると信じる信仰を求めたのである。