私たちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。(マタイ6:12)
「わたしたち」という言葉で祈る「主の祈り」は、教会の祈りである。私たちは「主の祈り」を祈るたびに、「自分は本当に人を赦(ゆる)しているか」と問われる。赦せない人がいる時、この聖句を祈るのはつらい。私たちは、赦されることは喜ぶが、人から中傷されたり、実害を受けたりすると、受けた負い目を赦すことができないばかりか、復讐しようとさえする。私たちの世界に憎しみや争いが絶えない理由である。
主イエスは、中傷、軽蔑(けいべつ)、憎悪など、人間のありとあらゆる罪が吹き出ている十字架の苦しみに耐えながら、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた(ルカ23:34)。十字架の上で罪人の赦しを祈って死んだ御子イエスのゆえに、神は私たちの罪を無条件に赦してくださる。赦しこそ、主イエス・キリストの父なる神の御心である。「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをもお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」と主イエスは言う(マタイ6:14~15・30)。人を赦すことなしに、自分の罪の赦(ゆる)しは全うされない。この厳しい主の言葉は、神の赦しがどんなに大きな恵みであるかを私たちに思い知らせる。
教会は、日曜日にこの世から神のもとに立ち帰る、主イエスの十字架を仰ぐ者たちの礼拝共同体である。私たちは共に神を礼拝し、共に十字架を通して語る神の「赦しの言葉」を聞き、共に「主の祈り」を祈り、神の御心を行わせる聖霊を受けてこの世へ出かけていく。