隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる(マタイ6:6)
信仰生活は、神との交わりの生活である。その中心は礼拝である。礼拝の内容は、神の言葉を聞き、祈って、神の祝福にあずかる行為と、神を賛美し、献身を表明して、神の祝福に応答する行為がある。いずれも、神に向かってなされる信仰の行為であるが、いつのまにか人間相手の行為になってしまうという信仰の誘惑が常に私たちにつきまとう。人からの称賛や評価を期待して、自分の礼拝行為をことさらに見てもらおうとする誘惑である。
私たちは祈ることでさえ、神ではなく人が相手となるという誘惑にさらされる。誘惑に弱い私たちをご存じである主イエスは、「祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉めなさい」と言う。主は、信仰の仲間と共に祈ることも勧めているが、私たちの祈りが神に向けてなされるように、まず密室の祈りをするようにと勧める。
主イエスは「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父の元で報いをいただけないことになる」(1節)と言う。主は「報い」を否定しない。ただ、人からの報いではなく、天の父からの報いを求めよと言う。「隠れたことを見ておられる天の父が、あなたに報いてくださる」(4節)。隠れたことが現れる日が来る。その日、神は必ず報いてくださる。「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」(フィリピ3:14)ことが、信仰生活のあり方である。