8月24日「いなくなっていたのに見つかったのだ」

お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を聞いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか(ルカによる福音書15章32節)

兄は、放蕩(ほうとう)息子の弟を家に迎えてぶ父の心が分からず、怒って家に入ろうとしなかった。ところが、主イエスが語った父の兄に対する態度は驚くばかりである。父は「私の喜びが分からないなら、勝手にどこへでも行け」とは言わない兄が家に入ろうとしなかった時、父の方から外に出て、彼のところまで足を運び、彼を「なだめた」(28節)。「なだめる」とは、「招く」、「慰める」、「とりなす」という意味である。どの意味とっても、兄に対する父の愛情がよく表れている。怒っている兄に父が語った葉が、今日の聖句である。

父は「この息子は死んでいた」と弟が父の家を出て気ままに生きていた時、実は死んでいたと言うのである。彼は父の家に帰ることによって、生き返った。人は神の家に住み、神と結ばれて、真に生きる者となる。

父は、弟にもそうであったように、兄にも愛を込めて家に入るように招いた。息子たちに対して、父の愛は広く、優しく、魅力的である。この父は、御子(みこ)を世に遣わし、御子を通して語り、大いなる愛を現された私たちの主なる神であるこの父のように、神は力ずくで私たちを家に連れ戻すことはしない。ただ大いなる愛を示して、私たちを神の国に招かれる。

兄は真面目な人間であったしかし、父の心が分からなかった。弟を失った悲しみも、弟を迎えるびも分からなかった失われた人たちに対する神の痛みと愛を知らないなら、私たちも兄と同じように父から遠く離れている失われた者である。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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