今日5月10日は母の日です。5月の第2日曜日が「母の日」となったのは1914年。第28代米大統領ウッドロー・ウィルソンにより米国の祝日として制定され、日本でもそれに倣(なら)って行われています。
また1908年の5月10日に「母の日」礼拝が初めて行われました。
アン・ジャービスはメソジスト教会の牧師の娘で、自分の子どもを何人も病気で亡くしたことから、母親と子どものための公衆衛生運動を自分の教会(アンドリュース・メソジスト監督教会)を中心に展開しました。
1905年5月9日に亡くなると、娘のアンナが3年後の5月10日、自分の母親だけでなく、すべての母親を称える記念の礼拝をこの教会で行いました。母親の働きを見ていた12歳の頃、日曜学校の最中に、誰かがいつか「母の日」を始めてくれるようにと祈ったことを思い出したのです。
このとき、アンナが出席者全員に、母親が好きだった白いカーネーションを贈ったことから、白いカーネーションが母の日のシンボルとなりました。
その白さは、母親の愛の真実、純粋さ、そして幅広い慈善を象徴するものです。その香り、彼女の記憶、そして彼女の祈り。カーネーションは花びらを落とさず、枯れる時も胸に抱きしめるように、母親も子どもを胸に抱きしめ、母親の愛は決して死にません。この花を選んだとき、母のピンクがかった白いベッドを思い出しました。
これを日本に紹介したのは、青山学院で教えていたメソジストの女性宣教師たちです。
まず、青学の前身である海岸女学校の校長も務めたメアリー・J・ホルブルックが1909(明治42)年、帰国中に米国の教会で「母の日」が始められたことを知り、日本の教会の年中行事の一つにしようと尽力しましたが、志半ばで3年後に召天しました。
その意志を継いだのが、青山女学院で教えていたマイラ・E・ドレーパーで、1913(大正2)年、日本で初めて「母の日」礼拝を行いました。また、国際母親協会を創設し、「母の日」啓蒙のトラクトや母親教育の書籍も書いたといいます。
その後、青山女学院院長を務めたファニー・G・ウィルソンが「全国母の会」会長になり、日本各界の著名人に働きかけた結果、1932(昭和7)年5月8日、日本で初めて「母の日」大会が日比谷公会堂で開かれました。そして、1949(昭和24)年頃からアメリカに倣(なら)って、5月の第2日曜日に母の日が行われるようになったのです。