主の御名をあがめます。
皆様、ごきげんいかがでしょうか。今日もまたお相手させていただきます。MAROです。よろしくお願いします。
「正論」とか「正義」とかって、いつの世にも大切なものです。しかし、時としてそれが人を傷つける道具になってしまうこともあります。
たとえば、芸能人の不倫報道をよくテレビで見かけることがあります。不倫は確かに良くないことです。「不倫をしない」のは正義ですし、「不倫をすると、家族もまわりの人も傷つけることになる」というのも正論です。
しかし、不倫をしてしまった人を何度も何度もその「正義」や「正論」で叩き続けるというのは、果たして正義でしょうか。正論でしょうか。「正義」「正論」の前で、その人は何も反論ができずに、ひたすら「ごめんなさい」と謝り続けるしかありません。そして、精神的に倒れてしまいます。
皆さんの中には芸能人の方は少ないでしょうし、不倫をした方も少ないかもしれません。しかしこれと同じように、何らかのかたちで「正義」「正論」に打ちのめされたりした経験のある方は少なくないのではないでしょうか。「あなたが正しいのは分かっています。何の反論もできません。だから、もうこれ以上、私に正論をぶつけないで、そっとしておいてください」。そんな気持ちになったことは、大なり小なり、ほとんどの方が経験しているのではないでしょうか。
実はこれ、クリスチャンが陥りがちな落とし穴なんです。クリスチャンにとって聖書はこの上ない「正義」であり「正論」です。何か間違いを犯してしまった人に対して、「聖書にはこう書いてあるでしょ!!」と責めてしまうことは、クリスチャンが陥りがちな罠(わな)です。そしてそれが「聖書に打ちのめされる」経験になってしまうことが少なくありません。正確に言えば、「聖書に」ではなく、「聖書を振りかざす人に」です。
さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。(マタイ7:1、新改訳)
「正義」や「聖書」を振りかざして人を叩く人は、この戒(いまし)めに反しています。
聖書は、誰かを叩くためのものではありません。誰かを救うためのものです。ですから、今もし「正論」や「聖書」で自分が叩かれていると感じている方がいらしたら、どうか今一度、聖書を読んでみてください。聖書は決してあなたをむやみには叩きません。傷つけません。あなたをむやみに叩き、傷つけるのは「聖書を振りかざす人」であって、聖書ではありません。
そしてしかも、その「聖書を振りかざす人」も、ちょっとだけあなたに対するアプローチを間違ってしまっただけで、決して悪い人ではありません。あなたが悪いわけでもない、あの人が悪いわけでもない、「ちょっとアプローチを間違ってしまっただけ」です。たとえて言うならば、「薬の用法をちょっと間違ってしまった人」です。
「聖書」も「正義」「正論」もとても大切で有用なものですが、ちょっと使い方を間違えると、人を傷つけるものになってしまいます。どんなに良い薬でも、用法・用量を守らなければ身体を壊してしまいます。「正論」は、用法・用量を守って適度に。そうしたら、これ以上に良い薬もないわけです。
さて、「クリスチャンとはかくあるべき!」とか正論を言われると、ぐうの音も出ないぐうたらクリスチャンな僕はそろそろ眠いので寝ることにします。それではまたいずれ。
主にありて。MAROでした。