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10数年前、私は夏の休暇を利用して伊勢神宮に行った。目的地は四国だったので、途中の伊勢に「ちょっと立ち寄ってみよう」程度の気持ちだった。外宮を観光し、翌日内宮に向かった。内宮の入り口の橋を渡ると、ゴミ一つ落ちていない砂利道や豊かな自然の中に佇(たたず)む社殿に、外宮では感じられない「凛」としたものが漂っていた。その空気感に圧倒されたのか大勢の観光客も静かに歩を進めていた。拝礼こそしなかったものの、私にはとても心地よい空間と時間であったが、それは私たちキリスト者が礼拝を守る場・空間を大切にしようとしていることに通じるものがあると思えてならなかった。
もともと私は会堂が好きだ。外観がというよりも、会堂内が好きと言った方が良い。「日常の中の神聖な空間」と私自身は勝手に思い気に入っているのもひとつの理由だが、それ以上に会堂には深い思い入れや思い出がある。それは高専の3年生の時であった。専攻する化学に興味がわかず、自分の進路に悩んでいた頃であったが、先輩に誘われて教会(久留米ルーテル教会)に出席するようになった。高専の敷地内にあった学生寮に住んでいた私にとって、土日の教会は別世界であった。しばらくして寮を出てアパート住まいを始めた、教会から徒歩5分の所で。殆ど毎日のように教会に足を運び、時には深夜に会堂に忍び込み長椅子で寝ることもあった。そんな私を、牧師先生は決して否定したり叱ったりすることなく受け入れてくださった。会堂は私にとって、世界で唯一存在する「居心地の良い場所」だった、だから私は会堂が好きなのだと。
埼玉県のある県立高校の校内には「すみっこ図書館」と呼ばれる場所がある。マンガコーナー、ゲーム機にぬいぐるみ、ボードゲーム、パズル等があり、ゆるくて自由なそのコーナーに生徒たちがやってくる。「保健室やカウンセリング室だと『看護される』『相談する』という目的がないと入れない場所もあるが、図書館にはそれがない。ゆるくて自由。生徒にとってセーフティーネットの一つとして、機能させたい」と司書の方は語る。(2023年2月3日朝日新聞夕刊「もう一つの居場所」より)その部屋に来る生徒たちの姿を想像すると、50年前の会堂に寝ていた私がそこに居るようであった。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)キリストは私たちの心の居場所。だからキリストの体である教会もまた全ての人の居場所としてそれぞれの地に在る…筈だが、この3年間を振り返って「居場所」足り得ただろうか。どんな時にも、会堂は「あなたの居場所だ」ということを忘れないようにしたいものだ。