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「おやまのウサギが申します かみさまキャベツ ありがとう」と始まるK保育園10月の園児礼拝讃美歌「山の感謝祭」は、2番では「リスがくるみ」、3番では「サルがおいも」、4番では「小鳥が木の実」と感謝する。繰り返しが多いので、子どもたちにも覚えやすく、秋の実りの豊かさと神様への感謝があふれる讃美歌である。ところが最後は少し異なり、「おやまのみんなが申します かみさまみんな ありがとう」と締めくくられる。収穫への感謝であったものが、突然対象が「みんな」へと変化する。毎年この時期に歌われる讃美歌であるのでこれまでは深く考えたこともなかったが、今年は三か月ほど前のある出来事の記憶があって、「みんな」という言葉がやけに耳に痛く響いてきた。
三ヵ月前、市川教会会堂で、ウクライナの平和・戦争の早期終結を願って、16人のオペラ歌手が集まり、シルヴェストロワ作無伴奏混成合唱曲「ウクライナへの祈り」の収録が行われた。会場提供の責任者として挨拶を求められ、私は最後に祈りを捧げた、「収録へのお支えを、ウクライナの地に平和を、平和を求めるウクライナの人々の祈りを、神様どうぞお聞きください、叶えてください」と。その後、収録の邪魔にならないようにと自宅に戻りながら、私はもうひとつ祈ることを忘れていたことに気付いた。それは「平和を求めるロシアの人々の祈りを」と祈ることであった。平和を求める強い思いは戦争という状況下にあって、双方に存在する筈である。なのに無意識の内に私の中では「平和を求めるみんな」は、私から見て「正義の中にある人だけ」としてしまっていたのだ。結局、私がいうところの「みんな」は、同感・同意できる人でしかないからこそ無意識に「平和を求めるロシアの人々」を排除してしまったのだと思う。この三ヵ月、ずっと引っかかっていたそのことを、「かみさまみんな」と笑顔で歌う子どもたちが改めて教えてくれたと同時に、「『みんなはみんな』の気持ちを忘れないで!」と神様が教えてくれているかのようだった。
「その時、イエスは言われた『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」(ルカ23:36)十字架上のイエスの周りには、イエスの服をくじ引きで分け合う兵士たち、ののしる群衆、そして自分を見捨てた弟子たちがいたことだろう。苦痛の中でイエスは、彼らのために赦しを祈ってくださった。彼らとはまさに敵味方を越えた「みんな」であったことを、絶えず思い起こしていきたい。
(尚、当日収録のニュースが千葉テレビで配信されています。「シルヴェストロワ ウクライナへの平和の祈り」で検索してみてください。)